存在のメタ化

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世田谷美術館の「作品のない展示室展」の記事読んで、「存在をメタ化」することで現状のジレンマや混乱から抜け出すことができるし、自分もそうしてきたね、ってふと思ったの。

「存在のメタ化」ってあまり聞かない表現だけど、自分の中では何度か経験している。わかりやすいところでは、私の経歴。真面目に経歴を書くと、本当に一貫性のない業界・職種の仕事をしていて、15年くらい前まではそれを一言で言うことができず、面接で過去の経歴について話せと言われると、とっ散らかった風になってしまうし、なによりプロフェッショナル感がなくて悩んでいた。あるとき、もう「立ち上げ屋」でいいじゃん、と開き直って、Linkedinもそれで丸めてみたら、思いのほかしっくり来て、それ以来、立ち上げ屋さんということで暮らしている。

最近の存在のメタ化事例としては、ハコスコ社かな。これがまた曲者で、VRの会社だと思われながらも、脳活動計測やらエナジーバーグなんていうハンバーグの開発をしていたり、介護施設向けにVR旅行を提供していたりと、すっかりなんの会社かわからない。これについては「スクラップ&ビルドばかりで、飽きっぽい」だとか、「リソースを集中するべきだ」とか言われたりして、自分としても悩んでいたのだが、最近改めて「ハコスコ社は実験カンパニーだ」ということで、これらすべて脳科学者藤井主宰の現実科学研究の実験装置と実験そのものである、としたら、思いのほかしっくり来て、ようやく長年の自己否定から開放されそうな気がしている。もうすべて「実験」起点で、プロダクトとは実験の装置であり、売上とは研究費獲得でいいじゃん、と開き直ることにした。

一番古く、存在のメタ化をした記憶を辿ると、小学2年生に遡る。私は学芸会の「森のどうぶつたちの合奏」という演目で、自分が脚本とナレーションを努め、父兄や学校からえらく褒められ、老人ホームなどでも上演するに至った。この演劇の誕生のきっかけは、1年生の学芸会のことだった。演劇チームは12名いたのだが、ボスキャラだったちづ子ちゃん(仮称)の「私、赤ずきんがいい」の独断で、彼女とその取り巻きの3名ですべての登場人物が埋まり、残りの8名はセリフなしの「森のどうぶつ」となった。私はふつう「赤ずきん」には出てこない無言のパンダとなり、今でも残っている母宛ての招待状にはパンダちゃんの悔しさが滲んでる(涙)。

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1年後の2年生の学芸会でも、演目を決めようという段で、同じことが起きた。ちづこちゃんが「私、シンデレラがいい」と言い出し、またもや彼女の取り巻きでない子供たちはセリフなしのエキストラになった。「えー、登場人物の多いお話にしようよ」「かさこじぞうとか?」「やだやだ!」演目選びは紛糾した。そこで私は「だったら全員平等にセリフのある劇を作ろうよ」と言って、他のエキストラの子たちと民主的な新チームを立ち上げ(笑)、先の「森のどうぶつたちの合奏」を作ったのだった。「森のどうぶつたち」とは、赤ずきんのときにセリフをもらえなかった、あの森のどうぶつたちたちのことだった。役がないなら、自分で作ろう。セリフがないなら、セリフを作ってしまおう。フィットする物語がないなら、物語を作ってしまおう。存在をメタ化してしまえ、というわけだ。

18歳でアメリカに渡り留学を始めたときにも、自分の存在をメタ化したことを思い出した。初めて親元を離れ、異国で暮らすというのはそれなりにカルチャーショックだったわけで、これからの不安でモヤモヤとしていた。そんな時に、学校の廊下に貼ってあった大きな地球の写真を見て、「あー、宇宙から見ると自分って、点にもならないくらいの存在なんだな」「存在しているはずなのに、ぜんぜん見えないじゃん」「これが色即是空。空ってやつか!」と、それだけで心の霧が晴れて、悟ったような気持ちになったのを覚えている。

「存在をメタ化する」
考えてみるとこの解決策は、仕事の問題解決としても使っていて、その度に問題の当事者から「君は非常識だ」くらいの嫌味を言われるが、大抵、そこで問題は収束する。

今の状況が足しても引いても解決しないなら、存在をメタ化してみる。1段でも2段でも、自分の頭上高くドローンを飛ばした気持ちで、解決するレイヤーまで視点を上げてみる。そこから自分や問題となっているものの存在をメタ化する視点が生まれ、再構成の扉が導かれる。そんな気がする。