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「表現しないと生きていけない」という錯覚


着物、アルバムという順番でちゃくちゃくと思い出の品を片付けていったボクは、最後の最後に自分の部屋の片隅に置いてあった1つの箱を整理することになった。

パカッ。

開けて見ると、その箱の中には演劇部に所属していたときの脚本が数冊と先輩からもらった手紙がチラホラ。想像していた通りのモノが出てきた。

ボクは、それらを無表情のまま取り出し、特に開くことも懐かしむこともなくバリバリとシュレッダーにかけていった。


ホント、何も感じない。


ということは、自分の中で演じることへの未練は1㎜も残っていないんだな、と悟った。

そりゃそうか。

だって、ボクは元々演じることが好きで演劇部に入ったワケじゃなかったのだから…。


きっかけは、
小学5年生の部活選びのときだった。


特段好きなことのないボクは、当時、なんとなく憧れていた同級生が演劇部に入るというのを聞いて入部してみることにした。その同級生は明るくて活発で、いつもみんなの輪の中心にいるような自分とは真逆のタイプの子。

ボクは、その子と仲良くなることができたら自分も同じようにみんなから一目置かれるような存在になれるのではないか、という動機で入部したのだ。

というのも、その頃のボクは学校の中でいてもいなくても変わらない、特段得意なことも苦手なこともない。透明人間のような存在だったから。


ボクには、存在感がなかった。


それはおそらく、入学したての小学1年生のときに1DAY限定で"いじめ"を受けたことが大きく関係していると思う。

砂場で遊んでいる4、5人の同級生に「いーれーてー」と声をかけたときに"こう"言われて外されたんだよ。

「え~いれてだって~。ダメー!よーしーてって言わないと入れてあげなーい!」って。

東京から関西へと移住してきた人間に対する差別。ボクは、一瞬頭の中が真っ白になって、そこから何も言い返すことができずにボーッとみんなが遊んでいる様子を黙って見ていることしかできなかった。


それからだ。


ボクは、その一件以来、なんとなく周りとの壁を感じて上手く馴染むことができなくなった。まるで、自分だけが膜で覆われているような、みんなとの距離がとても遠い感覚。完全に、心のシャッターが閉じてしまったのだ。

この経験を誰かに話せば、きっと、そんな些細なことで大袈裟じゃない?なんて言葉が返ってくるかもしれないけど、繊細すぎるほどに繊細で、仲良しの友達と別れたばかりのリトルボクにとっては衝撃的な出来事だった。


心なんて、
簡単に壊れちゃうんだよ。


人間って残酷で怖いなとも思ったし、関西弁も関西人も大嫌い。ここは自分の居場所じゃない。早く大人になって東京に帰りたいと毎日思っていた。

そんな感じだったからさ、とにかくボクはもう2度と誰からもいじめられることのないように気配を消して、静かに穏やかに、可もなく不可もなく、無事に高校までを生き抜いて卒業することだけを考えていたというワケです。


ところが…


そんなボクがこともあろうに演劇部に入っちゃったもんだからさ。当然、人前に立って目立つようなことをやらなきゃいけなくなってしまった。

でも、不思議とネガティブな感情はなくて、むしろ自ら進んで主役のオーディションを受けて見事合格。毎日、必死になって台詞を練習していた。



そして、本番。



これまた不思議と緊張するということが1㎜もなくて、幕が開く前からワクワク感が止まらない。講堂には想像していた以上の人数が集まっているし、もう、やれるだけのことをやってやろうって感じ。

ボクは、舞台に立った瞬間から「自分である」ということを忘れて1人の少年となった。

たしか、『緑の宝石』というタイトルの物語だったと思う。最後の最後のクライマックスで「この緑の宝石を…!」と言うシーンがあったのだけど、ボクはその一言に持っているエネルギーのすべてをブチ込んで叫んだ。


すると、どうしたことでしょう。


観客席から「おおっ!」という歓声が上がって拍手喝采。自分の中にとんでもないポジティブなエネルギーが舞込んでくるのを感じた。

嬉しい。
とても、嬉しい。

でも、終演後、舞台中の拍手や歓声よりも、もっと嬉しいことが待っていた。

なんと!校内ですれ違う同級生が次々と話しかけてくれたのだ。「さっきの舞台よかったよ!」とか「すごいね!」とか「感動した!」とか。

ボクは、その言葉を受けてはじめて同級生たちと「繋がる」ことができたような気がした。


それからだ。


ボクにとって、演じることはコミュニケーションの手段となった。自分を守る盾でもあったかもしれない。演じてさえいれば誰からもいじめられることもないし、存在を認めてもらえる。

同級生も、先輩も、後輩も。

ちゃんと、ボクという人間を認識して尊重してくれる。ときに、先生までもがボクのことを「演劇部の人」としてカテゴライズしているようだった。


演じることは、
ボクのアイデンティティ。


学校という閉鎖された空間で息をしていくために、なくてはならない、空気のようなものだった。

懲役12年。

ボクは、一貫校という牢獄から脱出するまでの間、演劇部に所属し続けることにした。



しかし、高校2年生の進路相談のとき。



ボクは、思わぬ現実の壁にぶつかってしまった。担任の先生から将来どうするのか?と聞かれて、足元から崩れ落ちるような恐怖感が襲ってきた。

そうか…。

高校を卒業したら、もう演じることができなくなる。もちろん、演劇科のある大学を受験したり、大学でも演劇部に入れば何の問題もない。

でも…。

それも大学に在学している4年間の話しであって、結局、就職をしたら続けられなくなってしまう。ボクは、表現しないと生きていけないのに…。


喉元が凍りつくような気がした。


想像できない。自分が、表現も何もしていない状態で「誰か」と関わっていくこと。

ボクは、考えに考えて考えた結果、俳優になろう!と決意した。そうだ。演じることを仕事にしさえすれば永遠に続けることができる。

一生、表現することができるんだ!

ボクは、2回目の面談で「俳優になります」と打ち明けた。その答えを聞いた担任の先生は、ちょっと困ったような呆れたような顔をしながら「俳優は…儲からないぞ…」と言った。

正直、こんな学校で教師をやっているお前に言われたくねぇんだよ!と思ってスルーしていたけど、やっぱり、先生の言っていた通りだった。というか、厳密に言えば俳優ではなく売れていない俳優は儲からない。

結局、儲からない、稼げないという恥ずかしさからボクは演じることを捨てた。


表現欲を封印した。


だけど、ボクの中にあった表現欲は思わぬカタチで飛び出してきて、プライベートやどうでもいい仕事の場面でボク自身を守るために自分ではない「誰か」を演じるようになっていった。

大学に入学した頃から、
ボクには「自分」というものがない。

いつも相手に合わせ、その場所に最も相応しい「自分」というものを演じてしまう。

それは小学校の頃から変わらず演じていないと人と繋がることができないからなのだけど、大抵の場合は自分自身の繊細さを守るための仮面だった。

そう、ボクは『ガラスの仮面』に登場する北島マヤと同じ。千の仮面を持っている。



例えば…



ある時は、

みんなを盛り上げるピエロの仮面。面白いジョークを言って周囲を笑わせ、つかず離れず絶妙なポジションに立つ。

面白い人は嫌われない。

黙っていると近寄りがたいと思われるから、同性の比率が高い場面でかぶることが多かった。


ある時は、


ピュアで素直でちょっと天然な子羊のような仮面。通称、羊の着ぐるみ。今までで、一番多くかぶってきたかも。だって、みんなボクに見た目通りの中身を期待していたのが分かるから。

時として、激しいギャップはマイナスになるし。羊の着ぐるみをかぶっていたほうが、便利でスムーズだったんだよ。


ある時は、


羊の着ぐるみとは真逆で、3股5股はあたり前のスーパーチャラい仮面をかぶることもあった。これは、相手に『聖域』を冒されそうになったときにつける。というか、いわゆるハラスメントを受けそうになったときにつける。

なぜって、そういうキモいヤツって綺麗なものを汚したいという深層心理があるでしょ?

清純派女優が大好きで、自分好みに染めたいという欲望を持っている。だから、自分で自分のイメージを汚しておけば近づいてくることはない。絶対に、触れてはこないんだよ。


いや、一度だけあったか…。


芸能界にいた頃、一度だけ飲み会の席で隣に座っていた通りすがりのハゲデブ業界人に3秒ほど太ももを触られたことがあった。

そのときの感触は
ベタリとして気持ち悪いかった。

もしも合法だったら、その場にあったナイフで指を一本一本バラバラにしてアイスピックで手の甲を蜂の巣のように突き刺してやるのに。


死ね。

死ねよ。


ボクは、絶対に許せない、と思っていた。

でも、本当に許せなかったのは仕事がなくなるかもしれないという恐怖からその薄汚い手を振り払うことができなかった自分自身なんだ。

もちろん、ボクはニュースで取沙汰されているような被害に遭ったことはない。

せいぜい、こんな感じに脚を一瞬触られた程度だし、ほとんどは言葉によるものだった。

けどね、その言葉ってやつも厄介で、今日までの間ボクの心に刺さり続け、ずーーーっと血を流し続けてきた。

思い返せば、言葉によるハラスメントを随分多くの人から受けてきたなと思う。


異性だけじゃない。

同性からも受けた。


どいつもこいつも、出会った瞬間にボクの変えようのない見た目についてあれこれと言いたいことを好き勝手に言ってきやがって。

いつも、強烈に嫌だった。

毎回毎回毎回、色々なことを言われる度に心が歪んでいくような気がした。


だから、

ボクは仮面をかぶるようになったんだ。


仮面をかぶり、話し相手やその場に相応しい人間を演じていれば直接的に傷つくことが減っていく。

これは「本当の自分」じゃないから何を言われても大丈夫って。自分を誤魔化すことができたのだ。

だけど、そうやって仮面をかぶって演じていけば演じていくほどボクの中で一番大切にしていた「表現欲」がダメージを受けていたんだね…。

ボクは、自分の胸に手を当てて「表現欲」に優しく語りかけた。が、野心を叶える過程でムリにムリを重ねてきた表現欲は、もう既に息をしていないようだった。

まもなく、
死を迎えようとしている。

誰か、誰か助けてください!


ボクは、心の中で『世界の中心でアイを叫ぶ』並の大声で助けを求めてみたけど、表現欲が息を引き取ろうとしていることに変わりはなかった。


ボクは、声もなく泣いた。


ごめん。ごめんな…。

あんなに演じることが好きだったのに。どうでもいい場面で、どうでもいいヤツからボクを守るためにムリをさせて…。

本当は…俳優になんてならなくても仕事なんてしなくても…ただ、自分を表現してさえいれば幸せだったのに。

ボクは…バカだ…。ごめん。こんなボクのせいで。もう、いっぱい疲れたよね…。


オヤスミ。


ゆっくり、安らかに眠ってください。

ボクは、そう声をかけながら表現欲の遺骨…ではなく、バラバラになった脚本のカケラを袋に詰めて捨てた。

圧倒的な無。

怒りも哀しみも、
嬉しいも楽しいもない。

ボクは、その日を境に喜怒哀楽というものを失った。何を読んでも、何を観ても。


1㎜も感情が動かない。


それからの世の中は、恐ろしいほどに「無味無臭」でつまらないものになった。どれほど好きなものを食べても味がしない。まるで、ゴムを食べているような感覚。次第に、食事を摂ることも少なくなっていった。


ボクは、空っぽの"0"になった。

ずっと、追い求めていた"0"に…。



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中村慧子|Keiko NAKAMURA
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