身体と言う居場所
意識が身体にある状態、つながっている状態:
意外と怠りやすく、二の次になりやすいことかもしれないが、私は今の自分の身体の声をきく、身体の感じている方を頼る、身体が知っている感覚を取り入れると言うことが人生を大きく動かしてきていたように感じている。
身体の声を聞くというと、どうしても過保護に、大事に大事に無理させないで温めて、と偏りやすい気がするけど
大事なのは本来の機能を機能させることであり、身体のパーツパーツの才能を伸ばすことでもあると思う。
筋肉には縮む能力と伸びる能力があるわけで、それは伸び縮みさせてあげたら良いし、
血液は流れるのなら、逆流させない、滞らせない方が良さそうだし、
骨には骨の可動域の範囲で屈曲伸展をスムーズにしてやるといい。
とか考えだすと、目や耳や内臓は、食道が胃腸が腎臓が、と思いを巡らせることになるが、そうなるともうただただそれらが喜ぶことをしてあげたい気になる。
美味しいとか安心とか“いいもの”と誰かが言っていることではなくて、
大事なのは、
自分のこの細胞達が喜びそうなものに触れさせたいし、与えたい。
自分のこの細胞たちが喜ばないことをしたくはないし、負荷を与えたくないと考える。
美味しいかどうか、高いかどうか、絶対いいらしいかどうか、、も、あてにはならない。私の中の身体のサインを第一に聞いていくとそう言う誰かの言う、『良い』は大抵当てはまらない。
どうしても自分の細胞達の思いを叶えてあげられない時には自分の考えを明確にして、ちゃんと腑に落とすと言うか、心身ともに納得させてあげることも有効だと思う。
それくらい、鳴り響く自分の身体の声さんとはコミュニケーションを密に取っている感触がある。
そこさえ仲間割れしていなければかなり、信頼関係を結べていられる気がしている。
そしてそれが何よりの心地いい私の居場所だと思うのだ。
この身体は与えられた居場所なので大事に扱いたい所存。
毛も愛おしいし、いまいちなバランスな肉体も、虚弱な胃腸も愛おしい。
そうやって細胞たちとの集まり、として触れ合っていると、他人様も愛おしい細胞達の集まりで、当たり前に愛おしい人たちに思えるのだ。
ごめんね、細胞達。今日もありがとう、細胞達。
の連続である。笑
変な人なのでこの辺にしておこうと思うが、それが私がこの肉体で地上を生きる上で第一優先してきた生業だったなという確信からくるものでした。
人間関係にも、思考にも、生計にも、幸せにも、大丈夫だと思える安心感にも、いつだってダイレクトにサインをくれるのは自分の細胞たちだったから。
今やれることをやろう、知っていることをやろう、わかっていることを行動しよう。と思う度に、自分の細胞の向く方へ、訴えてくる方へ、意識がそう向くから。
突き詰めると、今ここ、今この瞬間の声を捉えては、
『私の身の上で起こっている現実』というものはこの細胞レベルで起こっている。と、いう感覚はいい感じに他人事ではなく、いい感じに自分ごと過ぎず、かつ、誰かのせいでもなく、逃げられもせず、引き受けるべき自分自身のことであり、その為に何ができるか考えよう!という気にさせてくれる気がする。
何かをされた、のではなく、
私が、今痛みを感じているのだ。という超現実にフォーカスされる、という具合だろう。
そこを切り取れたら後はどうすればいいかは身体は知っている。ということだと思う。
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