【Story of Life 私の人生】 第4話:誕生から幼少期 Part 2
こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生
前回は、第3話:誕生から幼少期 Part1 をお送りしました。
今回は前回の続き、私の誕生から幼少期のお話、Part 2です。
私と両親との関係についてのお話になります。
よく人から「遅く生まれた一人っ子だったら、さぞかし可愛がってもらったでしょうね」とか、「いっぱい甘やかしてもらったでしょう、いいな〜」と言われますが…
はい、たっぷり「可愛がって」もらいましたよ、別の意味で(笑)。
「親兄弟には頼らず、ひとりで生きていく」ことを信条として生きてきた母は、私に対しても、同じような生き方が出来る子供に育つよう願っていました。
両親共に、他の家に比べて高齢で生まれており、かつ私は一人っ子。
ということは、どう考えても、親は他の家と比べて、私が若いうちに死ぬ。
親が死んだら、兄弟姉妹はいないのだから、最終的には私一人になるが、親戚は頼るべきで存在ではない。
ならば、一人でしっかりと生きていけるように育てなければならない…そう思っていたのだと思います。(まるでライオンや狼みたい…)
その上、お寺で厳しく育てられた母です。
親子共に恥ずかしい思いをしないよう、礼儀作法や道徳には本当に厳しく、ことあるごとに体罰を受けてきました。
特に挨拶、返事の仕方、敬語の使い方には厳しかった。
少しでも口答えしたり、気に入らない態度を取ったら一巻の終わり。
母の仕事用に使っている和裁用の竹ものさし、掃除用の竹ほうき、竹の布団叩きで、身体中思い切り叩かれました。
それでも「言うことを聞かない」とか、「謝り方が気に入らない」となると、更にエスカレート、全身縄でグルグル巻きに縛られ、アパートの窓から外に吊るされたりしました。
父は父で、自分がわがまま放題で育ってきているから、何でも自分が思った通りにならないと気に入らない。
少しでも気に入らないことが起こると、容赦なく手が出る。
両親共に、戦前の昭和一桁生まれ。
体罰教育が当たり前の時代に育っていますし、昭和30年〜40年代は学校でも昭和一桁生まれの先生が多く、体罰が当たり前だった時代です。
今だったら、完全に「幼児虐待状態」、警察に捕まるんじゃないかというレベル。全身アザだらけは、日常茶飯事。
近所でもかなり有名になっており、「少ししつけが厳しすぎるんじゃないか?」とは言われていました。
父も母も、人が来ている時は明るく笑って楽しんでいるのです。
が、皆が帰ってしまうと即「お説教タイム」開始。
「お前は、親の言うことを聞いていない」「礼儀がなっていない」「ちゃんと敬語を使っていなかった」など言われ、叩かれる。
何か言えば「口答えした」と言われ、更に叩かれる。
ただただ泣くばかり。泣き止むまでお説教は続くという悪循環スパイラルに。
結局は、何をしても同じだと思ってしまい、自分の感情に蓋をしてしまった私。
そんな私に両親は「泣き虫はうちの子供じゃない」とか、「お前は荒川の河川敷で拾ってきた捨て子だ」とか、「生まれてこなければ良かった」とか、「出来損ないのカス」とか、「居なければ良い子だ」と言われ続ける日々…
幼い私は、冗談抜きで両親が「鬼」だと思っていました。
そして、「私は愛されていない」「存在しない方が良かったんだ」と信じて疑わなくなります。その状態は、ある程度大人になるまで続いていくことになります。
今になって思えば、両親には両親なりの考えや信条があり、「一人でも生きていける、しっかりした子に育って欲しかった」のだろうなと理解できるようになり、「彼らなりの愛情だったんだろうな」と理解出来るようになりました。
でも当時の私は、ただただ優しく接して欲しかった。可愛いよと言って欲しかった。
いっそのこと優しいお父さん、お母さんがいる家に養子に出して欲しかった。
余談ですが、外では「明るく礼儀正しい子」で通っていました。
学校でも、バイトでも、社会人になってからも、礼儀や敬語で指摘を受けたことは、ほぼ皆無に等しいので、有難かったと思えます。
親の望むような行動しないと、痛い目に合うと思い、悲しみをたっぷり抱えていた私は、感情に大きな蓋をして、裏と表の心を持つようになり、「叩かれない」方法を日々模索しながら成長していくことになります。
〜続く。
今日はここまでです。
次回は、第5話:幼稚園時代の思い出 に続きます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪