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東京愛上 【西新宿】 人は仕事に選ばれる

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 こういう文章が売れたらすごいなあ)

学生時代のこと。私は高田馬場の編集プロダクションでアルバイトをしていた。90年代の終わりごろの話だ。学生課のバイト募集の貼り紙で見つけた仕事だった。時給600円と最低賃金法に明らかに違反した職場だった。高田馬場の2DKのマンションの一室に、当時は高級とされたマッキントッシュのパソコンが何台か。数名の社員を抱えて、当時好調だった別冊宝島の仕事なんかをしていた。
業務内容は取材の手伝い…なんていうのはごくまれで、ホームページの更新やら、ダイレクトメールの作成などが主な仕事だったように記憶している。本当に稀に原稿を書く仕事があったが、原稿料は400字600円だった。当然時給600円では遊ぶお金にもならず、一方で家庭教師をしながら、学生時代を過ごしていた。

編集プロダクションの社長は持病の糖尿病の症状が悪化していて、言うことが理不尽かつ無茶苦茶で大変だった。その会社にお世話になっていた3年間で、取材相手に罵倒されたり、張り込みをしたり、人が失踪するのに立ち会ったりと、大変貴重な経験ばかりをさせていただいた。

その編プロの混沌とした感じは、田舎から出てきたばかりの私には居心地がよかった。毎日いろいろな出版社の人が、馬場の小さなマンションに来てはお酒を飲んで帰る。刺激には事欠かなかった。

講談社が新創刊する情報誌の企画を出さないかという話が来たのは、私がその会社のお手伝いをはじめて数か月ほどのころだったか。

インターネットもまだ一般的でなかった当時、情報誌はまだ勢いがあった。角川書店の東京ウォーカーの好調に目を付けた講談社が東京1週間という雑誌を創刊するのだという。もともと講談社と付き合いがあったその編プロが、新創刊のその雑誌に企画を持ち込もうということになったのだ。

編プロ的には、面白い企画であればだれのものでもよかったんだろう。私は面白半分で、支給されたA4のわら半紙に、企画タイトルと数行の説明を書き、何枚かを提出した。

それからしばらくしてのこと。そんな企画を出したことも忘れていたのだが、編プロの社員さんから「鹿野さんの企画通ったよ。いいじゃんあれ」といわれて、ええ、適当に書いたのにまじすか…と驚いた。
当時から若干サブカルに寄っていた自分が提出した企画は、ビジュアル系バンドの裏側を追うだとか、アングラな役者のインタビューとか、そんなのばっかりだったからだ。なにゆえそんなメジャーな雑誌に私の企画が通ったのか。

「いや、この企画に出ているアーティスト、今度デビューするらしくて」

アングラアーティストだと思っていたAさんを紹介する企画を出したのだが、ちょうど彼がメジャーデビューすることになったとのこと。かくして企画は創刊2号の巻頭カラーの1頁を飾ることになった。企画を立てた我が編プロが取材も請け負うことになり、私は企画を立てたご褒美にと、取材に同行させてもらうことになった。

講談社の社員さんはワンレンで化粧が濃い女性で、少しバブルのにおいがした。取材場所は西新宿のパークハイアットの上の方の階のスイートルームだという。夜景がきれいな1泊10万円はくだらない部屋である。ロビーでいただいた紅茶はポット1つが1,200円した。私の時給何時間分の経費がこの1Pのために消えるのか。

取材部屋に我々が到着したときには、もうグラビアの撮影がはじまっていた。半裸のAさんがベッドの上でカメラマンの要望に応じてポーズをとっている。上半身は素肌に毛皮。下は黒い皮パン。シャッターの音。光。Aさんから漂うオーラそのものが、堅気の人間とは違っていた。テレビでしか見たことがないような本物の撮影シーンに、当時大学生だった私は頭がまっ白になった。

撮影が終わると、Aさんはシャワーを浴びて、洋服を着替え、私たち編プロ軍団が待っている部屋に戻ってきた。その後編プロの社員さんによる取材がはじまった。いくつかの質問に、丁寧に、言葉を選びながら話すAさん。堂々としている…ように思えた。

しかしだ、よくよく彼の様子を見ていると、落ち着かない感じがするのだ。
手元の灰皿にはもう山ほどタバコの吸い殻が。
で、私は気づいてしまった。
手が震えてる。
緊張しているんだ、この人…。

デビューまでの経緯だとか、新作の概要だとかを聞いて、取材は30分程度で終わり、Aさんは次の現場があると、マネージャーさんと早々にホテルを後にした。

外見はさわやかで、ウィットに富んだジョークをいうような、頭脳明晰な青年だった。けど、彼は取材の最中どれぐらいのプレッシャーを感じていたのだろうか。編集者たちの前でスマートにふるまおうという気持ちと、それとは裏腹に彼が無意識に体で表現していた落ち着かなさとのギャップに、言葉を失った。

(そして煙草の吸い殻を持ち帰ろうかと思って、すんでのところでとどまった)。

当時はマニアにしか知られていなかったAさんだったが、今では誰もが知っている俳優だ。あんな、たかが1Pの雑誌の取材で手が震えてしまうぐらい繊細な心を持っていた彼が、どういう思いで、どんな苦労をして、東京で這い上がっていったのだろうか、私は知らない。

人は仕事に選ばれるんだな。と最近とみに思う。

このところ仕事柄、経営者の方やアーティストさん、編集者さんなどのお話を聞く機会に恵まれている。いろいろな人に会うたびに思うのは、よい仕事をする人になればなるほど、なりたくてその職業に就いているというよりは、仕事に選ばれてしまうという側面が大きい…ということだ。環境が、才能が、運命が、彼・彼女にその仕事を選ばせる。選ばれた人が、その運命をどう生かすかはその人次第。

Aさんも役者という仕事に選ばれてしまったのだろう。
震えながら、それでも必死に堪えて、ステージに立って、多くの人に受け入れられる立場を勝ち取った。その後テレビの中で彼の姿を見るたびに、あの西新宿の夜が思い浮かび、勇気づけられる思いがした。

あれから十何年が過ぎたが、私の400字の原稿料も、そこそこ食べていけるぐらいの金額にはなった。文章を書く仕事には、私もどうやら選んでもらえたようだ。

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