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東京愛上【江戸川橋】取次をめぐる日々

新卒で入ったのはアスキーという出版社だった。折しも就職氷河期のピークで、80社ほどエントリーして内定が出たのはたった2社だけだった。とにかく私は口下手で、面接で自分をアピールをするのが苦手だったし、成績もさほどよくなかったので、ギリギリなんとか社会人になれた、という感じ。それでも憧れの出版社勤務をなんとか手に入れて、うきうき臨んだ入社式だった。

入社式の会場に掲げられていたのは、大川功さんの遺影だった。
当時アスキーは経営が悪化していて、CSKの傘下にいた。入社式はCSKグループ合同で行われたのだが、CSKでアスキーに目をかけてくれていた大川さんが2週間前にお亡くなりになられていたのだ。なんとなく不穏な空気を感じた。その予感は的中する。

アスキーは変な会社だった。たぶん。
社長がアロハシャツを着ていたり、私語厳禁IRCのみで会話という部署があったり、牛丼禁止の部署とかもあった(このあたりは、有名な話なのかな)。アスキーの変な会社っぷりは、いくらでも書くことができる。(愛のある「変」ですよ、念のため)

一番びっくりしたのは、私が法務部で研修をしているときに、西和彦さんが突然現れて、私の後方の席のパソコンで「最近2chという面白いもんがあるらしいじゃないか」と2chにアクセスしはじめ、当然2chのユーザーさんたちは本人降臨に色めきたち、スレが伸び続け、これは面白いと思った西さんがその流れで1chを立ち上げたという話だろうか。

半年間社内研修でぐるぐるといろいろな部署の仕事を体験させてもらった後、正式に配属になったのは書籍の営業職だった。私は編集部志望だった。落ち込んだ。

(しかし後になっていろいろな編集者さんと話をして気が付いた。私のように技術的バックグラウンドが無い人間が太刀打ちするには、あの会社の編集という仕事は難しかったのではないかと。)

書籍営業の中でも、取次営業という仕事に配属された。当時アスキーから出ていた新刊は確か年間100~200点ぐらいだっただろうか。それを取次と呼ばれる書籍の卸売会社に持って行って、新刊の納品部数を決めてくるという仕事だ。

当時はまだ一般書も扱っていたので、ゴリゴリの技術書から、「ためしてがってん玉ねぎレシピ」みたいな本まで取次に持っていく担当をしていた。

当時アスキーはかなり営業力が強かったらしく、「指定配本」という条件で取引ができていた。これはどの本を、どの書店に何冊送るかというのを版元側である程度コントロールできる仕組みで、私は特約書店データベースと、それに登録された書店のランク(ものすごくPC書が売れる店はSランク、以下、上から順に、A、B、C…などとついていた)、そして新刊のテーマ性や類書の売れ行きなんかを見て、じゃあこの本なら、このランクの書店なら5冊配本だな、等々を決めて、取次の窓口にそれを伝え、納品日や納品部数などをFIXし、各取次への搬入部数を関係各所に伝えるという仕事をしていた。

発売日の数日前に書籍の見本が届く。表紙を見て、どういうジャンルの本なのかを調べて、各取次への搬入数を決める。表紙一つとっても、編集部の方の思いが垣間見れて、なかなか楽しい仕事だった。ここまでは。

ここまでは、というのは、そこから先はつらい仕事だったからだ。

取次にはよっぽどの事情が無い限り、直接見本誌を運ばなければならない。
トーハンは3冊、日販は2冊、ほかの取次数社には1冊ずつ…。それを紙袋に入れて、えっちらおっちら、取次まで運ぶ。トーハン、大洋社、大阪屋は江戸川橋、日販は御茶ノ水、遠いところは板橋の方まで。
新刊が1冊だけならよかったのだけれども、2点、3点が同時に発売となると、持ち運ばなければならない本の重さは相当なものになる。夏の暑い日も。冬の寒い日も。重い紙袋を運び続けていた。

取次の窓口は、銀行のカウンターをイメージすればいいだろう。
一般書と専門書に分かれていて、私たちは専門書の窓口に行くことになっていた。番号札をとって、自分の順番が呼ばれるのを待つ。だいたい取次の窓口に来ているのはおじさんたちが多い印象だった。
「そこをなんとか、もう100部お願いしますよ」と、絞られた搬入部数の増加を懇願するおじさんの姿をどれだけみたことだろう。何せ新刊の搬入部数によって、売上が決まるのだから。ここで冊数を絞られると資金ショートということだってありうるわけだ。

私はそもそも見本を手で持って行って窓口に並ぶという前時代性に、理不尽さを感じていた。人が手で持っていかなくても、宅急便でよいのではないかとか、やりとりも電話じゃだめなんかい、とか。ちなみに当時は1日に発売される新刊書籍の冊数は350点ぐらいだったと記憶している。これが上限を超えると受け付けてもらえなくなるので、予定より見本誌の到着が遅くなったりすると、朝一番で取次に飛び込まなきゃならないこともあった。 1日350点だから、年間にすると7万点だ。えらいことだ。

その搬入部数の決定に関して、私は正直なところ全く論理的な交渉をした記憶がない。「類書がこうだから」とか「他社の搬入点数が多すぎるから」。そんな理由ともつかない理由で搬入部数を減らされたり、増やされたりしたことばかりだったように思う。ここも理不尽ポイントの一つだった。

だけれどもトーハンの窓口詣での帰りに、取次の倉庫に行くのは楽しい仕事だった。倉庫には、少し取次が自社在庫として本を置いておいてくれるのだけれども、その管理をしているおじさんとたまに会って、取れれば注文もとってくる、というのが仕事の一つだった。

トーハンの倉庫でアスキーの担当をしていたのは、競馬とパチンコが好きなおじさんだった。いつも野球帽にランニングにぼろいズボンをはいている。顔を出すと、うれしそうに缶コーヒーをおごってくれて、最近の競馬の話なんかをしてくれる。スナックのお姉さんと旅行にいった話とかもしれくれた。私は競馬の話はよくわからなかったが、彼の周りでは空気がゆっくりと流れていて、それはそれで悪いことではないように思った。彼と話す時間は、当時右も左もわからないままで、緊張しながら仕事をしていた私にとっては素晴らしい息抜きだった。

明らかに本の世界とは違う世界の人。私たちが扱っている本の内容は、よくわからなくても、何が売れているかは出荷の状況をみているからしっかりと把握している。あの取次の倉庫の棚のたたずまい。倉庫の通路の間をピッキングしながらせわしく動いている人たち。売れる本はパレットで搬入される。パレットは1枚に1000冊の単行本が乗る。営業は書店さん、編集さんを巻き込んでその状態を目指す。

そんな渦中にいながら、私はあのとき本当に苦しかった。当時は自分がパーツの仕事をしているようにしか思えなかったのだ。自分の仕事が全体の中でどんな位置にあり、どうつながっているのか、それが見えないことが苦痛だった。若かったな。

今になってみれば、どの仕事がどういう意味を持っているのか理解できるのだけれども、あの時の私は視界が狭すぎた。パーツの仕事なんてありえない。仕事は必ず何かとつながっている。それに気づくことはできなかった

今私は流通小売業向けの媒体で、SCMだとか全体最適だとかの原稿を書かせていただくことが多いのだけれども、あのときの営業経験が無ければ、倉庫の雰囲気だとか、お店の人の考え方だとか、物流業や、卸売業の人の気質のようなものは、全く想像がつかなかったのではないかと思っている。

結局私は経営不振でぐらぐらに揺れていたのに恐れをなし、また、編集の仕事ができる会社を探して、アスキーをやめてしまった。だが、自分の仕事のベースは、あの江戸川橋のトーハンに向かって、見本誌が入った紙袋を運び続けた日々にあるような気がしている。そういう機会をくれた会社や、そして会社を飛び出した私を今でもやさしく受け入れてくれる先輩方には、本当に感謝してもしきれない。

(いろいろ昔の話を思い出しているので、
 何か間違いがあったらご指摘いただけるとありがたいです)

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Photo by Gwan kho (CC BY-SA 2.0) https://www.flickr.com/photos/gwankho/6205837092/

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