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「ひろゆき論」(伊藤昌亮)を読んで

「世界」2023年3月号掲載

結論は妥当なものだと思う。彼は未熟だということに落ちついた。(私はひろゆき氏が恐ろしいのでホッとした。)そして彼を生みだした『状況を招来してしまったことの責任の一端は、現在の日本の知のあり方にもある。新たな情報知に対して人文知はどう向き合うべきなのか、そして今日のネオリベラリズムに対してリベラリズムはどう取り組むべきなのか、それらの点が現在、あらためて問われているのではないだろうか』と結んでいる。

プログラミング的思考による世界の把握し直しにより、彼が、リベラルの価値観を覆すことに快を感じる横並びが苦手な若者たちに喜びを与えていることを説明している。

彼はネオリベといわれるが、それよりはコミュ障などのいわゆる「ダメな人」への生き方指南をしている、という指摘は示唆的だった。私は非正規労働者などの経済的弱者が鬱憤晴らしに彼を支持しているのだと思っていたが、経済的弱者ではなく、「コミュ障」「引きこもり」「なまけもの」が救われる道を示していると言うのだ。(それで数十万のイイねがつくものだろうか?それがつくのだ!きっとダメじゃない若者もイイねしているのだろう。)『むしろ「ダメをダメとして直視した」うえで、「チャンスを掴む人」になるべきだと彼は言う』と書いてある。『彼にとってのその本質は、むしろ「自分の人生は自分で守る時代」の「弱者の生存方法」なのだろう』とも。

情報弱者なのに実社会で権力を持ち、それを手放さない高齢者がいて、そういう権力に切り込んでいくならば賛同するけれど、ひろゆき氏や成田悠輔氏はそういう権力とは仲良くやり、穏健なリベラル層に切り込んでくるから質が悪いと思うのだ。

竹中平蔵氏が既得権益者は正社員だと言った(実際は株主や会社役員であるがそれは言わない)、そのスタンスだ。やはり、なんだかんだ言ってネオリベと親和性が高そうだ。

『「なぜリベラル派を嫌うのか」これらの存在、すなわち高齢者、障碍者、失業者、女性、LGBTQ、外国人、戦争被害者などが、いわばリベラル派の「弱者リスト」の構成員となっていると言えるだろうが、一方で彼が問題にしているような「ダメな人」は、そこにはほとんど含まれていない』。

『こうした見立てに基づいて彼らは、「強者」としてのリベラル派と、「偽の弱者」としてのマイノリティに強く反発することになる。そうすることが「真の弱者」としての彼らの階級闘争となるからだ』。

『それらの行動はいずれも、彼に「いいね」を贈った28万もの「真の弱者」の階級闘争が、その背後で繰り広げられていることを意識してのものだったのではないだろうか』。この階級闘争は、一位の階級は安閑としていて、二位と三位を争わせるものだから、それこそ「ずるい」と思う。本来は二位と三位が力を合わせて一位の者に挑んでいくのが本来の階級闘争ではないのか。二位と三位を分断して、自分の地位を守ろうとする意図が見える。

きっと、このことは世界が搾取する外部を失って、リベラル派が言う自由・平等・公平・民主主義を支える社会的コストに耐えられなくなっていることと無関係ではないだろう。その中で「自分」(だけ)が生き残る方法をひろゆき氏は指南しているのだ。なんともやるせない時代になってしまったが、若者はこの社会を生き抜かねばならないのだ。

私はよくウォッチしていないが、このようなことから宮台真司氏の加速主義も現れてきたのだろう。成田悠輔氏然り。

その現状を乗りこえるために、今「脱成長社会」「定常社会」を考え、人びとが経済成長しない社会、シュリンクしていく社会の中で、どうやったら助け合って経済成長とは異なる「幸福」を作り出していけるかという活動が生まれている。リバイアサン的社会ではない社会を展望するこの動きに私は希望を見いだしたいと思う。

 

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