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「海を感じる時」中沢けい著を読んで

「すべては沈滞し、退廃すらしない。羊より従順に授業を受け、惰性だけが毎日の原動力だった」。
私はこの言葉にショックを受けた。まさに、かつてそういう高校生活を送ったからだ。退廃するにも知性と生命力が要るのだ。

そうして、「もう頬杖はつかない」の中で、活動家の恋人のヤバイんだよ、助けてくれよ、という言葉に桃井かおりがシラケた気持ちでコップを傾け水を注ぎこぼすシーンは、既に熱い政治の時代が終わったことを暗示的に知らしめる。シラケ世代の誕生だ。

そのただ中にいたのが私や中沢けいだ。私は4年先に生まれたが、私の世代は全共闘への憧れがあった。中沢けいにはもうそれもない。中沢けいと同い年の少年と付きあったことがあるが、「ポパイ」という雑誌を読み、ただ小市民的な希望を持っていた。お洒落が自己表現であり、自己実現であった。中沢けいにはそれもない(この小説を読む限り)。徹底してシラケている。

そして、こう続く。
「私は、自分の中で血の流れが鈍り、鮮やかな色が鉄サビよりも水気を失う色になっていくのを感じる」。
なんて、あの時代の雰囲気を的確に捉え、詩的な言葉で描いているのだろう。早熟の才能を持った作家だ。

「ほとんどの生徒に巣食う『無気力』が私を病気にしようとしている。が、『従順』はまだ併発していないようだ」。

それから、「私」は高野洋と恋愛関係になる。その背徳性を「共犯関係」と表現するのも、あの時代、サルトルの小説に出てきたあの時代特有の表現だった。

そこからは、私の経験から離れていくが、私の高校生活は書き割りの中で高校生を演じ、恋を演じていたように思える。みなが自分の役割を演じていて、本当の言葉は何処かに行ってしまっていた。私は感受性すらも摩滅して、自分の本当の気持ちが解らなかった。「の・ようなもの」の中でもがいていた。

一方小説の「私」は執拗に洋につきまとい、妊娠したいと願望する。しかし、洋が同棲しようかと言ったとたんに気持ちは醒め現実的に失うものを実感する。そうして、恋も惰性のように続いていく。しかし、小説の文章は鋭く生き生きとしている。

流石に中沢けいは平凡ではない。娘の女に気づいた母と、母の女に気づいた「私」とが文字通り髪を振り乱しての格闘を真夜中の海辺で行う。二人とも倒れ込むまでもつれ合う。どこか、赤テントのクライマックスのシーンのようだ。

この夜を境に母は支配的ではなくなり、愚痴を言いながらも甘えてくるようになった。

そして、母との確執はリアルで凄まじいものがありながら、洋との関係は成り行き任せになり、「私」の女は海と一体化し、波に洗われるように拡散していく。否、海は「私」の身体に取り込まれ、「私」の身体の中で波打つ。蛇足ながら、海が自分の身体に押し寄せるという感覚はどのような気持ちなのだろうか。海を感じる時・・・

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