「世界の果て、彼女」 キム・ヨンス氏著を読んで
マッコリのように吞みやすい文章なのに、私は蒸留酒を生(き)のまま吞むように、少しずつ少しずつ味わいながら読んでいる。酔いつぶれてしまわないように。
韓国文学に触れるのは、チョ・セヒが書いた「小人が打ち上げた小さなボール」に次いで二作目である。キム・ヨンスの文章はチョ・セヒに比べて硬質でドライでいながら詩情に溢れている。毅然としながら、儚げだ。韓国の若者を見たときの印象そのものだ。
この本を読んで窓の外を見ると、世界が変わって新しく見える。
この短編小説集の物語は、成就しない想い、秘密の事件を抱えて、自分の人生から逃亡し生きる人間の孤独の物語なのだろう。それ自体がミステリアスであり、偶然に支配され、翻弄された人間の物語だ。
「世界の果て、彼女」
この終わり方は、僕と亡くなった詩人が愛した人とが愛し合うようになるという始まりを示唆しているのか。キム・ヨンスはラストに新たな物語の始まりを兆すような語りをする作家だと思うので、不安と期待が綯交ぜになった宙ぶらりんの気持ちで読み終える。
キム・ヨンスにとっては、遅延が一つのキーワードになっているようだ。遅れてやってきて、求めていたものの不在に茫然とするような、ある種の心の空白に彼は惹き寄せられているように思える。
キム・ヨンスは衒学的な言葉は使わない。平易な言葉で読者を圧倒するイメージの波間に泳がせ、目くるめく体験をさせる。
「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」
夫婦の心のすれ違い、母の死という喪失感と結びついた夕焼けの光景、その光景を共有したかに見える写真家の死、その夕焼けの謎を求めて韓国から日本へ旅をする主人公。渡り鳥は国境を易々と越えて飛んでくる。そして飛んで行く。作中では「野生の雁」という詩が引用され、その中の「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと、君が想像する通りに世界を見ることができる。雁たちは、声をあげて君を呼んでいるじゃないか、荒々しく、興奮した声で・・・君がいるべき場所はこの世の中にあると」という一節がこの短編の題名となり、主題となっている。「居場所がある」そこに救いがある。また、古い歌である「イムジン河」を想起させる「鳥には国境がない」という考えが根底にある。そして想いは鳥のように国境を越えていくのである。
この文章は佇まいが濱口竜介監督の「ドライブ マイ カー」と似ていると思った。そして、映画の「ドライブ マイ カー」の原作は村上春樹氏だということで、キム・ヨンス氏の原点に村上春樹氏がいるのではないかという気がする。そういえば、村上春樹氏の小説でも深い穴に落ち誰にも気づかれない時の孤独と絶望が繰り返し描かれている。この二人の作家の共通するものはつきまとう「孤独」なのだろう。そして、平野啓一郎氏が絶賛する。「どうしてこの小説が僕が書いたものでないのだろう」と。
「記憶に値する夜を越える」
(引用)「彼女は海の方に歩いて行った。じっとり濡れた土の上に雨粒が落ちる音、その雨水が下水溝に流れていく音、風が濡れた針葉樹を撫でながら暗闇に消えて行く音の間に、波が海岸に寄せては返す音が聞こえた。アルペジオのように、海は夜の一番低い音から一番高い音を交互に奏でていた。規則的に繰り返す波の音を聞きながら、彼女は苦痛を思い浮かべた」。
この作品には、音が溢れている。それは、自然の音の幽かなハーモニーとでもいうか、波のうねりのように絶えざる音による、静けさ(無音)を打ち破る感覚への刺激となって、彼女を包む。ジョン・ケージから坂本龍一まで自然界の音を自らの楽曲に取り入れた音楽家は少なくないが、彼らにも自然の音はキム・ヨンスのように聴こえていたのだろうか。
ここに描かれる高校三年生の彼女の身体に起きた第二次性徴の変化はリアルで、男性作家の手による文章だということに驚きを禁じ得ない。そこには、自分の意思と関係なく動いてしまう心と身体があった。寂聴氏が言ったように、恋は雷に打たれたようにやってくるので逃れようがないのだ。彼女の心と身体が求めているものが「安定」から自らを引き剝がすものであることに苦悩する。その感情に名前を付けることさえできない彼女の身に起こったこと。それは、万人が経験する極個人的な出来事である。
私は最後の「月に行ったコメディアン」が一番好きだ。出会いのちょっとしたいつもと違う自分を発見したときの描写に加え、愛し合い、一方的に別れを切り出された時の生皮を剥がれたような心の痛みと苦しみの描写、そして傷が癒えたかのようだった数年後の泥酔によって知る、まだ生々しい心の痛みと苦しみ。その後はつかず離れず一緒に歳を重ねたが、思いは指にできたささくれのように触れるとちくりと痛い。それは、彼女の父親のことが生前は分らずに、随分大人になってから理解するようになったことへの悔恨の想いもちくりと痛む心の傷となっている。
そして、彼女はその経緯を主人公に知らせ、点字図書館の館長が彼女の父親について知っていることを聞くように手配し、二人で彼女から送られたCDを聞いていて、彼女が見たものをCDの音から推測する。それは彼女の父が亡くなったアメリカの砂漠に浮かんだ満月だった。
コメディアンだった彼女の父親のギャグ「笑い事ではないんですって」が奇しくも、彼と彼女の出会いの場で主人公は苦しみについて述べたことが大笑いの種となり「笑い事じゃありませんよ」と言っている。これを因縁と言わず何という。
著者の言葉(あとがき)
(引用)「他者のために努力するという行為そのものが、人生を生きるに値するものにしてくれる。だから、簡単に慰めたりしない代わりに簡単に絶望もしないこと、それが核心だ」。
(引用)「今になってやっと、これらの作品が、炎から生まれた小説、波及していく小説、影響を与え合う小説であることに気がついた」。
(引用)「僕の外側の世界で炎が燃え立つのを目にした時、僕の内側でも炎が燃え立ったとしか説明のしようがない」
(引用)「波紋が広がるようにしてさまざまな影響を受けた作家の炎が、孤独に燃えていたある一時期。簡単に慰めない代わりに、簡単に絶望しない。これは、何かを否定するのでもなければ、何もしないという意味でもない。つまり、僕らの顔が互いに似ていくだろうと、同じ希望や理想を思い描いているであろうと信じる、嘘みたいな神話のような話なのだ。それでも、僕らが同じ時代を生きているという理由だけで、この神話のような話は僕を魅了する」。
読後感想:感想は著者のあとがきで言い尽くされているようだ。
外の世界の炎が主人公の内面の炎を燃やし、呼応するように他の人にも炎が燃え移る。それは、暖かな炎の場合も、焼き尽くすような激しい炎のこともあるが、その反対に冷たい炎のこともありそうだ。基本的に人間は分りあえなくて、理解しようという営為が愛であるというようなことがすれ違いを生み、それでも関係の糸を切らさないように努力する。
そして、他者のみならず、自分の中の他者に驚く。この辺の感情の動きの筆致は独特のものがあり、とりわけ恋に落ちる瞬間の描写が秀逸だと思う。主人公は「他人と分かり合えない」ことにより孤独を感じているが、恋だけが一瞬それを乗り越えられるという一つの誤解を美しく描く。
桜の花の描写もいくつか出てくるが、日本の桜を好きな人は散る桜を愛でる人が多いと思うが、キム・ヨンスの桜は満開の桜に感嘆しているようだ。これは、小説(月に行ったコメディアン)の中の「夢のように優しく降るぼたん雪」と呼応するのが、日本の散る桜ではないだろうか。頭上の桜の花と舞い落ちる花びらと足元の花びらの絨毯とで全身を桜が覆い、酩酊状態になり陶酔するのが日本の桜のような気がする。
愛の不可能性、だが愛無くして生きることの虚しさ、不可能な愛に向かって辿り着こうと必死で努力をする登場人物。古い話だが野坂昭如氏の「黒の舟唄」を思い出す。さすが野坂氏も小説家だけあって愛の不可能性には自覚的だったのだろう。勿論、キム・ヨンスのこの小説の方がとてもおしゃれだ。遅延、すれ違い、意地の張り合い、自分の大切な感情を相手が過小評価したり無視することへの絶望感、そう登場人物は自分に、愛する人に、誠実を諦めていないのだ。別れも含めて、諦めてはいないのだ。それが胸が張り裂けそうな絶望の彼方から炎を絶やさず生きる主人公の姿であり、しばしば名前を伏せられて彼、や彼女、としか紹介されない抽象的な主人公の普遍性でもあるのかもしれない。
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