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「水平線上にて」中沢けい氏著を読んで

中沢けい氏の感性が宇宙的自然のなかの生命体としての人間、ひとりの女子高生に降り立った啓示のような閃きと熱っぽさの中で粘つくような体液に浸され疼く。

和泉(主人公)は自分が寝るという単語をセックスの意味だと知ってはいたが、実は身体を交える前の視線の交わり合いからはじめてこんこんと眠る、その二人での眠りをさし示しているのだと感じていたことに改めて気付いた。

セックスに関する初々しいが根源的な考察。セックスと死の相似性を既に理解している。

自然の奔放な有りようのなかで、奔放ならざる思春期の葛藤と制御できずに湧き出てしまうものが混在して、ひとつひとつの描写は精緻で美しいが、そこには生命力のエネルギーによる渾沌がある。どこか、石牟礼道子の「椿の海の記」を思い出させる生きるものエネルギーに溢れた世界観を現している。

そして和泉は、名付け得ぬこれまで知ることのなかった湧き出る欲望と格闘することになる。それは植松との格闘の形を取った、自らの混沌との格闘だったのだ。

まだ自分でも判らない突き動かされるものを、中沢氏は冷徹に見つめ、名付けることなく、微細に描き出す。そして和泉の揺れ動く感情の認識の解像度がたかい。

それから、庭の木々、草花に囲まれ、穏やかな母と和泉の絶妙の距離とその描写は秀逸で10代の和泉の眼には世界が言葉によって把握される以前の原世界が豊かに存在していたことに驚く。

青春の一瞬一瞬が鮮やかにフィキサチーフで色留めされたように浮かび上がる。若さゆえの不器用さも、情熱も、興醒めも、すべてのエッジは鋭く目に鮮やかだ。圧倒的な筆力である。

そして若い男女の激しくも上手く処することができない様子を「痛みや甘さ」と表現している。「愛という便利な言葉を使えば行動と行為に理由がつく」が和泉と植松は「愛という言葉」を封印してしまったため、愛というオブラートに包まない剥き出しの関係は痛みを伴い、言葉にならない甘さを伴う。

そうして、好きでもなく、別れることもできない植松とは別の男子学生のところへ無邪気に訪ねて見ようという気になる。その気持ちを和泉は「無邪気というのは真剣や真実というやっかいなものと紙一重だと思いながら、急ぐ身体だけが浮かれて」先を急ぐ。しかし、彼はいなかった。

そう、携帯電話のなかった頃の恋とすれ違いと募る想いを思い出す。そしてあの頃、無愛想に黙りこくって不機嫌なのかと思えばそうでもなく、仲間の中にすっと紛れ込む寂しがり屋の男子学生もいた。

想いよりも言葉が勝る和泉と千々に乱れる想いを言葉にできない植松。

「海を感じる時」の高校生だった時に比べて大学生になった和泉は世情の的確な描写をするようになる。特にアルバイト先の存続危機に絡めて授業の法学を理解する様はすべての体験を吸収しようとする切実で貪欲な姿勢を感じる。

この小説を読みながら、私は森田公一とトップギャランの1976年に発表された「青春時代」という曲を思い出していた。「青春時代は道に迷っているばかり」「青春時代は胸に棘さすことばかり」という歌詞が、この二人のすれ違いを的確に歌っている。

そうした若い男女のもつれ合いのみならず、この小説では女性同士の関係も詳しく描かれていて、フェミニズムを高らかに謳った女子学生は現代にも通じるような先進的な理論を持ちながら、卒業する頃にはそれぞれがそれぞれの道を歩み必ずしもフェミニストの生き方を選んではいない。

同窓生たちの関係は交わりそうで交わることなくほどけていく。和泉は房総半島から影のように水平線上に見えていた伊豆に憑かれたように一人旅をして南関東を制覇した余韻に浸る。

「南関東という世界の細部」という題名のあとがきのごとく、この小説は房総半島、東京、三浦半島、伊豆の地形と植生を丹念に描いているが、それに絡む学生たちの生活や、都市のありかたが生き生きと描かれ時代の空気を切り取ってもいる。

2024年に40年前の小説を読んで、いちいち細かなところで、例えば公衆電話でのもどかしさとかを「ああそう、そうだったよね」と懐かしく思い出すのだ。そういう意味では時代の証言、或いは時代の記録と言って良いかもしれない。

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