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「もう頬杖はつかない」見延典子著を読んで

同名の映画は全共闘世代の恒雄(森本レオ)と年下の私(桃井かおり)と同級生の橋本くん(小林薫)の愛憎劇と呼んでいいのだろうか、それよりは青春時代のお互いの勘違いによる出会いと期待と別れが描かれている。
「私」は恒雄をギクシャクした関係ながらも憧れていた。そのアウラが妊娠中絶によって、話の噛み合わなさによって、剥ぎ取られ、「私」はもう恒雄を愛していないことを思い知り、もともと愛していない橋本くんとも別れ、男に頼る女から一人の大人の女として自立していく、という物語であった。

小説では、「私」が一年上の恒雄と橋本くんとを両天秤にかけ、ピルの飲み忘れによる妊娠により、どちらの子か分からなくて苦しみ悩んだ末、風来坊の恒雄とも、鈍感だが真っ直ぐな橋本くんとも別れる決心をする。子を中絶し、二人と別れてみればこれまでの悩みや心の重しが取り除かれていることに気づき、一人わらうところで終わる。

映画と小説を比べると、映画のほうが完成度は高く(商業映画なので当然?)、桃井かおりにはかなり感情移入したが、小説は感情移入しようがないほど、「私」の男依存のダメさがこれでもかと描いてあり、せっかくの学生の小説の瑞々しさが消えているように思える。しかし、妊娠による女性の身体的変化の描写には鬼気迫るものがある。そうして男二人と別れてみると、ころころと笑いがとまらない場面に、ああまだ人生を背負うには幼かったんだと分かるのである。

卒論代わりの小説だったというが、私はどうしても中沢けい氏の「海を感じるとき」と比較してしまう。中沢けい氏の文章の端正さに青春時代特有の意思の疎通が上手くいかないガタガタの現実は、好みで言えば中沢けい氏に軍配があがる。

だが見延氏の小説は時の前後等、場面の切り替えが洒落ていて映画に向いていることを感じた。

映画では革命による世界を語り輝いていた全共闘世代の恒雄は闘争に明け暮れ、姿をくらまし、姿を現したときには怯えて金が必要だ、貸してくれ、暫くはまた会えないとまくし立て、「私」の妊娠の話も聞かない様子に「私」は気持ちが冷めてゆき、それを喫茶店のテーブルにコップの水を垂らすことで表現している。その場面は全共闘世代からしらけ世代への時代の変化をも映し出している。

今、この作品を読むと怒り心頭の人がいるかもしれない。だが私たちの時代は屈折した母親の姿しか見ていない少女が男性と出会ったとき母親と同じような態度を知らず真似ていることはあるのだ。しかし無理が生じて全てを放り投げたとき、本来持っていた自由を勝ち得ることもあるのだ。まあ、無責任ではあるが。

「私」は無責任ではあるが、では避妊を拒否した男たちは無責任ではないのか?という問いが私の頭の中を虚しくころがる。

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