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自己評価や他者評価はどのようにして起こるか

生きづらさや悩みを抱えやすい人は「他者と自己との比較」がかなり頻繁に起きる傾向があると思います。
そしてそこには必ず「評価」がつきまといます。

比較したときに評価が絡まないことに関して人は反応しません。
黒いセーターを着た人と赤いセーターを着た自分だって比較によってしか色の違いを認識できないけど、ここには評価が起きないので何も感じないというような意味です。

必ず価値についての評価が起こったときに上なのか下なのかが気になりますね。
で、上なのか下なのか、ということで落ち込んだり安心したりといった具合です。
根本的なことを言えばその相対性の中にいる限りにはモヤモヤは解消されないのですが、じゃあ「他者と比較するのをやめましょう☆」と言ってやめられるのでしたら今頃誰も困っていないわけです。

そもそもなぜそういうことが起こるのか?ということを理解すると【自分に何が起こっているのか】を知ることが出来る。
そうすると比較する・しないの二元的な思考を行ったり来たりするのではなくて、その外へでる一歩となります。

で、図にしてみたのですが。

存在するという概念と環境から取り込んだ情報のドッキングが個人の定義

まず我々ヒトというのは大前提として「存在している」という概念を持っています。

それとドッキングしているのが「自己情報」なんですね。
私が「景呼(けいこ)」なのは、生まれた時からそう呼ばれていたからです。
つまりごく小さいころから周囲から与えられた情報です。
別にこれが「あけみ」という情報だったら私は今頃「あけみ」として生きているので、本当には景呼でもなんでもないのですけれどもね。

そういった名前から始まり、日本人だとか女性だとかハキハキしているとか足が遅いだとかさまざまな情報を取り入れて今の景呼が出来上がっているのですが、これらは全部環境から得た情報なのであり、同時に記憶です。

何度も同じ情報を入力されているのでそれがメモリーされて、同じ再現パターンが起き続けます。
だからいつもと変わりのない景呼として認識が起きます。
ある朝起きてその再現パターンが発動せずに急に「あけみ」という情報再現が起きるわけがないんですよね。
もしそれが起きたら脳に異常をきたしたってことです。

そしてさらに我々ヒトの脳は外部情報を勝手に取り込んでいつも演算処理をしていて、その結果を受け取る役目として「私」という質感を作りだすという機能を持っています。
これをクオリアと呼ぶのですが、この質感は例えば猫の舌を見た時にざらざらした感じがするなあとか、磨き上げられた大理石を見た時にピカピカでツヤツヤだなぁと感じるような、そういう質感ってあるじゃないですか。
実はそれと同じなんですよね。
要するに「私」って「感じがする」ということです。

こういう感じで【存在するという概念】+【私という質感】+【情報再現】で個人の存在の定義が決まるんですね。
もしどれか一個足りてなかったらどうかというと。

【存在するという概念】が無かったら「私みたないなものがいるようないないような」って感じがすると思います。
感じるけどいるのかいないのかわからないで幽霊みたい。

【私という質感】が無かったら「確かに今カレーを食べたけど誰が食べたかわからない」みたいな感じでしょう。

【情報再現】がなかったら記憶喪失ですね。
存在してるのはわかるんだけど、毎瞬「ここはどこ?私は誰?」状態です。

前置きが長くなったけど、こういう感じで個人の定義がされていくんですね。
自己もそうだけど他者もそう。
自己も他者も「存在している」と思ってて、自分に「私感」があるのだから他者にも当然それが在ると思ってるし、他者に対する「情報再現」がなされるのでその人のことを固定的に「ああいう人だ」という認識が起きます。
その上でこれまで培ってきたそれぞれの価値観の情報再現が起きるのでそこで「いいか・悪いか」「上か・下か」の評価が起きます。
この評価基準も人によって情報の再現が違うのでまちまちですね。

なので、自己にしろ他者にしろ「どういう人物なのか」という個人の定義とそれに伴う比較や評価は【情報再現】にかかっていると言えます。

だからあるAさんが本当は借金だらけなんだけど、豪邸に住んでハイブランドに身を包み高級レストランで食事をしていて、いつもとっても笑顔で機嫌がよさそうだとする。
その部分しか見てないとそういう情報しか入ってこないので「あの人はすんごいお金持ちなんだなあ、やっぱり金持ちは余裕があっていいなあ。それに引きかえ自分はお金もなくてイライラしてるな…」と見たりする。
お金があることがいいこと、いつも笑顔なのがいいこと、という情報再現があればそれに伴う評価が起きる。

そういう情報再現が起きない人は単に「お金持ちだなあ~」との事実(に見えること)は思っても、それ以上でもそれ以下でもなかったりします。

一方、そのAさんの実態を知ってる人が見たら「何を考えているんだろう、信用できない人だな」という印象を持たれたりして。
どの部分を見るかによってものすごいAさんの個人の定義が変わることはもちろんです。

でもまた違う人がその実態を見た時「ていうかあんだけ借金あってまだあの生活続けてていつも笑ってて逆にすげーな!ある意味めっちゃおもろい人物やん」などの評価がおきることもあるわけで。

というか、いかようにもそれを観察する人物、部分、情報再現などなどによってその人の定義や評価は変わるのですから、絶対の真実なんかないって感じなんですよね。
もちろん自己についてもそうなんですが、固定されているように感じるのがヒトのサガでもあるけど、長くなるのでそれはまた別に書きたいと思います。

みたいな感じでだいぶおおざっぱに書いてますが、自己の定義だって他者の定義だって単なる情報の再現が起きているだけなので確固たるものではないということです。

人のことはわからないのだから比較してもしょうがないからやめましょう!とかの話をしていなくて。
そうじゃなくて、比較がどうして起きるのか、何を比較して上だの下だの評価しているかを知ると、随分曖昧なものを頼りにしているってこともわかるし、かなり意味がないこともわかってくるということです。

人間、本当に意味ないなって思うことは自然とやめるもんです。
というか、やめようとも思わず「やまる」もんです。

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