文龍と台湾へ
愛媛で菊と出逢い、高知で事業を始めた文龍。
賭博から始めたが、商才に長けていた。
どうやればお金が増やせるか?友達とのネットワークから情報を得て、着実に土地を購入していった。
菊は
「お金ができたらすぐ土地になってしまう」
と不満をもらしていたが、文龍の読みは的確で、日本のインフレに従って、土地の値段はどんどん増えていき、それを売るだけで、次の 事業の元金をつくることができた。
文龍は、小学校位の教育までしか受けていなかったが、友達とのネットワークの他、新聞やニュースをよく見、また、周りの様子もよく 見ていた。
台湾語、北京語、日本語を話せるようになった。
また、音楽の才能もあり、教育を受けていなかったが、我流でピアノや胡弓にも親しんだ。
物価の高い日本に来れば、台湾への仕送りも相対的に高くなる。金を儲ける目的で日本に来ていた。
しかし、菊のこともかわいいと思っていたのには間違いない。
パチンコ店、中華料理店がうまくまわるようになると、文龍はたびたび台湾に里帰りした。
そのたびに、菊から渡航費用をもらっていた。菊に経理を任せていたので、文龍は菊にお小遣いをもらう形で金を使っていた。龍園がうまく行っている時には、かなり高額の金を使っていた。
ロレックスの時計や、仕立屋の帽子、スーツなどを持っていた。
帰る時はビジネスシートも使っていた。
また、台湾にたびたび国際電話をかけていた。電話代が月10万に登ることもあり、菊は渡航費用や電話代などにとても不満があった。
文龍も、菊の洋服代、宝石代には不満があった。
そんな贅沢をしても、生活がまわっていた。
文龍の親戚を家に招いて住まわせたり、龍園で働かせたりもした。つまりは、文龍の親戚の生活費も支払っていたことになる。
菊も自分の親戚を龍園で働かせたり、母、初子にお金を持って行っていた。二人とも、親戚思いという点は共通していた。
文龍の母が亡くなった時、菊も台湾に渡って葬式に出ることになった。
台湾式の葬式は、明るい祭壇で、遺体の周りをみんなで這って廻というようなことも式の中にあり、霊柩車も派手派手しく、また近所も ちょっとしたお祭りのような感じで、菊にとっては、ちょっとした観光旅行となった。
親戚は何十人といて、誰が誰なのかよくわからず、文龍も,日本語にどう翻訳していいかわからないとのことで、誰を紹介する場合も 「いとこ」と、紹介していた。
「台湾に帰るたんびに、いっぱいお金持たしちゃったきねえ、私のことは、台湾の親戚の人らあが大歓迎してくれたわ」
「けんど、だれもかれもが、いとこゆわれて、なんちゃあわからんかった。大体、台湾語が全然わからんきねえ」
と、菊は私に話した。
文龍の実家では、皆に歓迎してもらい、葬式のあと、台湾を観光させてもらった。
全く言語の通じない葬式参加はかなりハードであったものの、家族みんなに大歓迎され、菊は機嫌良く帰国した。日本に帰ってからも菊はよく働いた。
この頃から文龍はよく体調を崩すようになり、昼寝したり、散歩したりと言うことが多くなった。
昼前にパチンコ店を開けて、昼はぶらぶらし、夜パチンコ店を閉めて、ということが多くなった。
また、台湾に帰ると3ヶ月ほど台湾に滞在することもあり、休みなく働いていた菊に不満が溜まるようになっていった。
同時に、
「この人がいなくても私はやっていける。私で龍園はもっている」
と、思うようになり、次の事業として、追手筋に自分名義で購入した土地に、長女の美香の名義で4階建てのビルを建て、2階3階はテ ナント、1階にお茶漬け屋を構えた。追手筋は飲み屋街が多いので、飲み帰りにお茶漬けが売れると踏んだのである。4階は居室として、 甥を住まわせた。住居用とすることで税金を軽減した。
自分の好きな雰囲気に内装を工事し、龍園の客に大々的に宣伝した。
が、
お茶漬けは、大抵飲み屋が〆として提供するため、お茶漬け屋の需要は高くならず、結局ここもテナントとして、テナント収入でビルの 借金を払っていくこととなった。
借金返済に30年かかったが、土地は元々あったものなので、他の人に渡ることもなく、返済後は、自分の収入になった。
この経験が、後に、「借金しても、人に貸せば、何十年後かには、収入になる」という考えを根付かせてしまった。