『スタプリ』世界の技術多様性について――ドゥルーズ、レヴィナス、ホイを手がかりに【プリキュア批評】

★はじめに

 『スター☆トゥインクルプリキュア』(以下『スタプリ』)は、2019年2月3日から2020年1月16日まで放送された、「プリキュア」シリーズ16代目の作品である。制作は東映アニメーション、シリーズディレクターを宮元宏彰が、シリーズ構成は村山功が務めている。
 主人公の星奈ひかる=キュアスターら5人の少女は、宇宙に散らばった12星座のプリンセスの力を探して冒険するなかで、様々な星の住民と出会い、相互に理解を深めてゆく。
 作品のテーマは「多様性」である。プロデューサーの柳川あかりは放送前のインタビューでこう述べている。

広い世界には多種多様な価値観があることを知り、違いを楽しみながら、自ら星のように輝く(=スター☆トゥインクル)プリキュアたちの姿を描いていきます。

スター☆トゥインクルプリキュア:シリーズ初の宇宙人プリキュア登場 地球を飛び出し宇宙で冒険 - MANTANWEB(まんたんウェブ) (mantan-web.jp)https://mantan-web.jp/article/20181226dog00m200062000c.html、最終閲覧日年2024/7/17)

 さて今回問うのは、本作のキャッチコピーの深意についてである。それは次のようなものだ。

宇宙(そら)に描こう!ワタシだけのイマジネーション!


 テーマは「多様性」で、「想像力」がその鍵になる。2つのキーワードは一見、難なく並べられるように思える。
 しかし、キャッチコピーで「イマジネーション」が「ワタシだけの」ものに限定されているのは不自然ではないだろうか。開かれたダイバーシティ社会という目標のために、敢えて「みんなの」ではなく「ワタシだけの」イマジネーションを称揚するのはなぜだろう。
 本稿では、ジル・ドゥルーズ、エマニュエル・レヴィナス、ユク・ホイの議論を参照しながら、「イマジネーション」がほかならない「ワタシだけの」ものでなければならない必然性を明らかにすることで、『スタプリ』世界で言われる「多様性」のあり方を正確に描写することを目指す。

★暴力に囲まれるわたしたち

 多様性というテーマについて考えるに先だち、まずはそれと対称をなす悪について整理しよう。
 『スタプリ』における悪とは他者の独立を妨げる暴力である。本作は一貫して、ダイバーシティの理念を掲げると同時に、利己心から他者に向けられる暴力を告発する。
 例として最初に挙げられるのが、多様な文化を持つ星々を武力によって侵略する第3クール以前のノットレイダーであろう。
 「第3クール以前の」と限定したのは、当初は「敵」として登場した彼らだが、第4クール中で侵略の動機として迫害や一方的搾取を被った過去が明かされることで、以降プリキュアとの単純な対立構造では理解できなくなるからだ。
 たとえば幹部のひとりであるカッパードは、自身が故郷を異星人に奪われたという過去をもつ(第45話)。またラスボスとして照準されていたノットレイダーのリーダー・ダークネストも、その正体は、12星座のプリンセスらによりかつて「スターパレス」を半ばいじめのような形で追放された、蛇使い座のプリンセスだった(第47話)。
 しかし――ここが『スタプリ』の「プリキュア」シリーズ中で際立つ点なのだが――、ノットレイダーら自身もまた暴力の被害者であったという事実は、「本当の敵」が他にいることを意味するわけではない。
 なぜなら、悪は暴力という普遍的な観念であり、それを体現するキャラクターはあくまでも具体的な表象に過ぎないからだ。
 ひとりひとりの悪役を倒しても、宇宙から完全に悪を消滅させることはできない。仮に12星座のプリンセスを改めて相手取って闘い撲滅したとしても、それで大団円には至らないだろう(結局、作中でプリンセスらが責任を問われることは最後までなかった。カッパードの星の侵略者についても言及されない)。
 プリキュアやノットレイダーに求められるのは、悪の存在を消極的に認めつつ、向き合う態度を「復讐」から、距離を取って「共生」することへと主体的に変更することだ。
 第4クール以降、作品の焦点は客観的な事実としての悪の存在/非存在から、個々の生き方という内面的な問題へとシフトする。客観性を括弧に入れることで、悪がどうしようもなく遍在する世界のなかで、自己の生き方を主体的に選択することの重要性が強調されるのだ。
 10月に公開された映画作品『映画スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』[1]も同様である。「成長して将来星になる存在」であるユーマは、希少価値ゆえに宇宙ハンターに狙われ、そのストレスから破壊行為を始めるに至る。直接的な原因となったハンターたちは逮捕されるが、ここでも彼らを悪そのものと見做し逮捕によって解決とするのは誤りだろう。
 最終的にユーマの心を癒すことになるプリキュアの歌・「Twinkle Stars」の歌詞にはこうある。

わたしたちは星 一所懸命 一瞬に 一生に
生命(いのち)を燃やす

「Twinkle Stars」、作詞:大森祥子、作曲・編曲:高木洋、歌:キュアスター(CV:成瀬瑛美)、キュアミルキー(CV:小原好美)、キュアソレイユ(CV:安野希世乃)、キュアセレーネ(CV:小松未可子)、キュアコスモ(CV:上坂すみれ)、販売:株式会社マーベラス。


暴力に囲まれながら「わたしたち」=「星」という主体は、みずからが立つひとつの場所、ひとつの時間においてどれだけ自分の輝きを放てるか。やはり問われるのは個人的な生き方の問題である。
 逆に言えば、『スタプリ』で提示される悪(の解釈)は専らキャラクターの実存にのみ委ねられており、物語中では必ずしも客観的な解決に至らない。これは制作陣に意図されていたことのようである。柳川は放送終了後のインタビューで次のように述べている。

視聴者から、「スタプリは何も解決しない」というご意見をいただくこともありました。これまでのプリキュアでは、敵との戦いが決着がつかないまま撤退することは、あまり多くはありませんでした。保留する、撤退する、距離をおく……。スタプリでは、そんな答えを急がない選択をあえて描こうとしていました。

『スター☆トゥインクルプリキュア』から考える、アニメで多様性を描く意義。【メディアとダイバーシティ Vol.1】 | Vogue Japanhttps://www.vogue.co.jp/change/article/media-and-diversity-star-twinkle-precure、最終閲覧日2024/7/17)。

 ちなみに、引用は柳川の言葉だが、「何も解決しない」結末はシリーズ構成の村山の特徴とも言うことができるだろう。他作品の例では、『ひろがるスカイ!プリキュア』[2]で村山が脚本を担当した第38話は、村人から忌み嫌われ山上に潜んでいた竜族がプリキュアに説得され地上に降りるが、最終的な村人の反応は描かれないという、類似の構造を持つ。

★多様性の想像=創造

 『スタプリ』は外的世界の事実よりも個人のメンタリティを重視する。客観性よりも主体性――この観点から「イマジネーション」というキーワードについて考察を進めよう。
 「imagination」という英単語は動詞「imagine(想像する)」の名詞化された形であり、一般に「想像する力」と「想像の所産」との二つの意味で用いられる。作中ではどちらも一様に「イマジネーション」と表されているが、以下本稿では便宜上、前者を「能産的イマジネーション」、「後者を所産的イマジネーション」と区別して呼称することにする。
 本作で代表的な想像行為は、星々を線で結び星座を紡ぐことだ。ひかるは幼少期より自身のノートにスケッチした夜空の星から「オリジナル星座」を独創することを趣味としており、またノートが変身アイテムの「トゥインクルブック」に変状してからも、ノート上に現れる星々を「トゥインクルペン」で繋いで食材を描き、宇宙妖精・フワに与え育てることがプリキュアの重要な使命とされる。
 星座という所産的イマジネーションは、個人の主体性から生まれる、あくまでもそれぞれ独自の(=「ワタシだけの」)ものであり、一般化されて他者と共有されるものではない。では、これがどうして多様性というテーマに繋がるのか。
 この問いに答えるにあたり、以下では「反復」と「渇望」という二つの哲学的な観点を用いてみたい。それぞれドゥルーズ、レヴィナスから借りた概念である。

1.想像の反復

 「反復」という語は、定義上、等しいものが繰り返されることを意味するが、反復された事物は、むしろそのたびごとに個々の本質的な差異を強調する。
 ドゥルーズ[3]は一卵性双生児を例に挙げる。二人は仮に外見が全く等しくとも、生きた人間としては、それぞれが何者にも代えがたい「ユニーク」な存在である。二人が並んだとき、逆説的にそれが強調されるのだ。また同一のモノについても、それが鑑賞者の頭のなかで反復される(=「解釈」)とき、人によって様々に描き出された像は、ひとつひとつがオリジナルとは異なるユニークさをもつ。
 『スタプリ』に話を戻そう。夜空の星々そのものの光り方や位置関係は、当然ながら、地球の自転による周期的な動きを除いて(目視できる範囲では、基本的に)変わらない。ひかるは客観的には常に同一である夜空に、想像上の線を書き込むことによって、星座という夜空の解釈を幾度も創造し、その都度新しくユニークさを見出している。
 客観的には不変の事物に対して、自由な意志によっていくらでも「質的」な差異を与えることができる。星座の想像の繰り返しが楽しいのは、このように能産的イマジネーションの可能性をどこまでも広げて発現させられるからだ。
 ところで、柳川(同上)によれば、『スタプリ』において、内的な「心の宇宙」の多様性は世界のそれと対応している。

 スタプリは宇宙をテーマにした作品なので、世界の多様性だけを描いてきたと思われることが多いかもしれません。けれども同時に、自分という個のなかの多様性にも同じくらい取り組んできたつもりです。世界を知るということは、自分なかにある「心の宇宙」を探究するということでもあります。
 世界の多様性と自分の多面的なアイデンティティは、片方だけでは存在しえないと思っています。

 想像によって新しく星座という所産的イマジネーションが生産されるたび、ノートは彩りを増し「心の宇宙」は広がる。それは同時に、ひかるの内部だけではなく、頭上に広がる夜空そのものの方がユニークさを拡張して現れる契機になる。――想像を「反復」する意義をまとめればこうだ。
 しかし作中でひかるは、自身による想像の反復だけではなく、他者による所産的イマジネーションを積極的に「渇望」している描写も見られる。

2.所産的イマジネーションの渇望

 レヴィナス[4]が言う「渇望」とは、自身とは異なる他者の「他」性を求めることである。他者は自身と同じではない、まさに他者であることによって渇望され、追い求められる(ちなみに、この根源的な情動をレヴィナスは「愛」と定義する)。ここで言われる「他者」とは人間に限らない、モノや動物、思想なども含んだ概念である。
 ひかるが「他者」としての――つまり自身とは異なる者にとっての「ワタシだけの」――所産的イマジネーションを渇望している場面を2つ例示しよう。
 1つめはコミック版『スター☆トゥインクルプリキュア』[5]下巻第6話に見られる天体観測のシーンである。プラネタリウムに来たプリキュアの5人は、ひかるの提案によりそれぞれがオリジナルの星座を描き、発表する。ひかるが自身で想像を楽しむだけではなく、他のメンバーの所産的イマジネーションを欲していることが現れた、象徴的な場面と言える。
 発表会で羽衣ララ=キュアミルキーは目を輝かせてこう言う、「それぞれのイマジネーションルン! こんなにちがう…だからステキルン!」。レヴィナスの議論に沿えば、発表会でそれぞれの想像行為の所産が可視化されたことで、互いに対する差異が際立ち(「こんなにちがう」)、5人それぞれがそれを「他者」として渇望した(「だからステキルン!」)。
 第2の例は、第12話などで主題になる、ひかるの映画趣味だ。彼女はJ.J.アブラハム監督の「すったもんだウォーズ」や「インディーJAWS」など、オカルトSF風の映画を愛好している。しかし似非科学を信じ込んでいるわけではなく(むしろ第49話で宇宙飛行士になった将来の姿が描かれているほど、正統な学問にも精通しているはずだが、それでいながら)あくまで娯楽として楽しんでいる様子だ。
 フィクションで説明される理屈は、科学的に見れば明らかに偽である。しかし、それはそれとして、SF(サイエンス・フィクション)とは現実の科学知・技術を素材にして想像的に創られた、現実とは別の仕方で存在するひとつの独立した世界であるとも言える。その意味で、SFで描かれる世界は日常世界に住む者にとって一種の「他者」である。つまりSF作品を愛好するひかるは、形式上、他者を渇望していると言うことができるだろう。
 (ただし『スタプリ』を、『スターウォーズ』のジェダイが銀河帝国に反抗するように、個人主義が全体主義と闘う物語として解釈するのは誤りである。ノットレイダーはその名が表す通り侵略行為それ自体を目的とした組織であり、全体主義を暗示する象徴機能は持っていないからだ。事実、作中でダークネストや幹部の口から最終的に実現すべき社会の姿について語られることはない。むしろ極端な個人主義の方が、スタープリンセスやハンターが象徴するように、利己を帰結する悪として描かれているとさえ言える)


 以上、世界の多様性の契機として、想像行為の反復と、他者の所産的イマジネーションへの渇望を挙げた。この2つの観点から見た『スタプリ』世界は、多様な想像行為の主体が共存する多元世界の様相を呈してくる。
 これで当初の問いに対する答えは出たと言ってよいだろう。すなわち、「ワタシだけの」の「だけ」という限定表現は、内向に留まったり、アイデアを独占したりすることではない。これはむしろ各々の想像行為が「ユニーク」であるからこそ、それらを繰り返したり共有したりしたときに開かれる、多様性を有した世界の楽しさを強調しているのだ。

★「想像以上」の多元世界へ

 この世界観は楽しみに満ちる一方で、しかし次のようにも問われるかもしれない。客観的事実としての課題に対する解決方法が「解釈」や「想像」でしかありえないのは、結局「スタプリは何も解決しない」という結論を受け入れることを意味するのではないか、と。
 確かに、『スタプリ』では自由な選択によるア・ポステオリな意志が第一の原理とされ、チームの絆さえも絶対ではない。実際、第48話でプリキュアの使命を終えた5人はそれぞれの星に戻ることになり、地球人のひかる、天宮えれな=キュアソレイユ、香久矢まどか=キュアセレーネは、宇宙連合に属すララ、ユニ=キュアコスモとこれまでのようにワープの力で会うことが一切できなくなってしまった。
 しかし、物語は「精神的な紐帯/物理的な断絶」という構造に完全に還元されたまま、非物質的なイデーの次元に拘泥して終わるわけでは決してない。
 この構造を揺るがす可能性が、同・第48話で示唆されている。
 ララはひかるとの別れに際して、翻訳機を使わずに地球(日本)の言葉で「ありがとう」と発語する。第1話で地球に不時着したララをひかるが助けたとき、翻訳機を介して始めて発した言葉が「ありがとう」であった。この対称によって、身体的には本来使えないはずだった言語が一年間育んだ友情の力によって僅かながら使えるようになったという事実が強調されている。
 ひかるの方も、たとえば「身体は離れても心は繋がっている」というような台詞を口にすることはない。むしろ彼女は物理的に再会することを目指し、最終第49話で描かれた15年後の姿では、前述の通り実際に宇宙飛行士になっている。地球における宇宙のフロンティアを自ら越えたのだ。
 ここで議論を進める補助線としてホイ[6]を援用したい。彼は個人や民族が有する「テクネー」(外界に干渉する方法一般。近代西洋の「科学技術」はその一例にすぎない)の背景に、それぞれに固有の「宇宙論」、すなわち各々の宗教などに現れる特殊な世界観があると指摘する。西洋において支配的な「科学技術」を相対化し、多様な世界観にもとづく広義の「テクネー」を肯定することで、世界は多元的に干渉を受け展開してゆく可能性を確保される。
 個々人が異なる世界観や目的意識を持っていて、それにもとづいた各々の方法で世界を作り変える。この認識は『スタプリ』の世界観にも通底している。ララは身体的制限を乗り越えて新しく言語を獲得し、ひかるはみずから宇宙飛行士となって技術的限界を越える。対象が自身の身体であれ、地球の学知であれ、二人はそれぞれの方法で物理的に世界を作り変えている。
 つまり『スタプリ』世界の多様性は単に認識されるレベルの表層的な多様性にとどまらない。それはホイの言うところの「技術多様性」、すなわち世界のあり方に直接干渉する力をもった主体が様々な仕方で併存するさまを、したがって多元的に変化しうるポテンシャルをもった世界を表している。
 先に挙げたレヴィナスの議論では、渇望されるのは具象として把握される特定の他者ではなく、その「他性」であるとされた。ひかるが「渇望」しているのは何かと改めて問えば、その答えは所産的イマジネーションそのものではありえない。彼女は数々の所産的イマジネーションの奥に見える、作品を創造=想像した主体としての人々と、その――世界を変える可能性を有した――多様な能産的イマジネーションを求めているのだ。
 本稿は「客観性・物理性/主観性・精神性」という二項対立にもとづいて論を進めてきたが、『スタプリ』で描かれる能産的イマジネーションはこの構造を乗り越える。柳川が言及した批判、「スタプリは何も解決しない」という見方は誤りと言い切ってよいだろう。
 世界を作り変える多様な主体と、それを欲するひかるの姿勢、これらを端的に表した象徴的なフレーズが主題歌の「キラリ☆彡スター☆トゥインクルプリキュア」の歌詞にあるので、引用しよう。

Go! Go! 想像以上の彼方へ

「キラリ☆彡スター☆トゥインクルプリキュア」、作詞・作曲:藤本記子(Nostalgic Orchestra)、編曲:福富雅之(Nostalgic Orchestra)、歌:北川理恵、販売:株式会社マーベラス。

 様々な他者がそれぞれの能産的イマジネーションを発揮しながら共に生きる世界。それはひかるの想像を超えて、ダイナミックに現前する。


★おわりに――『ヒープリ』への展望

 以上、アンチテーゼとしての悪から始め、そこから主体性の肯定、さらに反復と渇望がもたらす多様性の認識へと議論を進め、最後にひとりではない多様な主体が併存し、各々が世界を想像=創造する最中にあるダイナミックな光景として『スタプリ』の世界観を素描した。
 多様性という今やありきたりになりつつあるテーマについて、本作は通俗的な多様性称揚の形式にとどまらない含蓄をもっている。
 だが『スタプリ』が扱い切れなかった問題もある。
 たとえばフワを子どものメタファーと解すなら、第33話などで描かれるワープの失敗は命に関わる危険な事故で、ひかるたちによる保護や見守りの不十分さとその必要性を指摘せざるを得ない。
 また悪の表象として描かれた人物たちもその原因を突き詰めれば自身の「宇宙技芸」や能産的イマジネーションの欠如、すなわち独立して生きられない一種の「弱さ」にあり、それゆえに集団となって数や権威により他者を支配しようとしたと言えるだろう。
 つまり、ひかるたちのように強い行動力をもった人物を描いて個人の主体性を尊ぶだけでは、それを思うように発揮できない人々、たとえば幼い子どもや何らかの身体的ないし社会的制限下にいる人々の生を十分に肯定できない。
 こうした弱さ、またそれと向き合う「ケア」の問題は、翌年放送の『ヒーリンぐっど♡プリキュア』[7]に引き継がれ、主人公・花寺のどかの長期入院の経験や、友人や家族と結ぶ親密な関係を通して描かれてゆくことになる。


[1] 監督:田中裕太、脚本:田中仁、制作:東映アニメーション。
[2] シリーズディレクター:小川孝治、シリーズ構成:金月龍之介、制作:東映アニメーション、2023年2月5日~2024年1月28日。
[3] 財津理訳『差異と反復』(河出文庫、2007年)
[4] 熊野純彦訳『全体性と無限』(岩波文庫、2005年)。
[5] 上北ふたご、講談社、2019年。
[6] 伊勢康平訳『中国における技術への問い:宇宙技芸試論』(ゲンロン叢書、2022年)。
[7] シリーズディレクター:池田洋子、シリーズ構成:香村純子、制作:東映アニメーション、2020年2月2日~2021年2月21日。

いいなと思ったら応援しよう!