太陽を失った日。
母は、太陽のような人だった。
いつも明るく、温かく
家族を、私を、包み込んでくれていた。
今から60年近く前に、祖父から父との結婚を反対された母は、駆け落ち同然で家を出たそうだ。
その後、勤めていた会社を辞めた父と商売を始め、決して裕福とは呼べない暮らしだったはずなのに、私の記憶の中の母はいつも笑っていた。
そして、何よりも家族を愛してくれていた。
長男が0歳の時から夫は単身赴任で。私がひとりで仕事と家事と育児に追われていた時も、母がいつも助けてくれていた。
長男と二男が、真っ直ぐに優しい大人に成長してくれたのは、間違いなく、母が溢れるように注いでくれた愛情のおかげだ。
私が離婚を決意できたのも、母のおかげだった。
夫との関係に悩み、家で全く笑えなくなっていた私は
『母親が笑顔でいられない家庭で、子供達を幸せにはできない。私は子供たちの前で、笑顔の母親でありたい。』そう考えて、離婚を決意した。
そのことを、後悔したことは一度もない。
そんな母に変化が訪れたのは、もう15年くらい前。
60代初めから物忘れがひどくなり、60代の半ばで母は若年性アルツハイマー型認知症と診断され、母の記憶から家族の思い出が消えていくにつれて母の顔からは笑顔も消えていった。
その後、母は特別養護老人ホームへ入所することになったけれど、食事を食事と認識できない母は、どんどん痩せ細っていった。
すっかり家族のことを忘れ、感情も、言葉も失くした母は、私や家族が会いに行っても怯えた表情を浮かべるだけだった。
そんな母の顔を見るのが辛く、コロナで一時面会もできなくなり、母への面会は数年に一度になった。
母の病気のことについてはこの記事に。
そんな中、2024年9月12日、母の主治医から私の携帯電話へ連絡があった。
施設から病院へ入院をしたこと、今後の延命治療について家族で話し合いをしてほしいという内容だった。
父と話をし、母がまだ若くて元気な頃に話していたように、積極的な延命治療はせず、なるべく苦痛がない穏やかな最期を迎えさせたいという希望を主治医へ伝えたのは、9月20日のことだった。
その後、経管栄養も中止され、9月30日には点滴からの栄養も行うことができなくなった。主治医からは、もうあまり時間は残されていないので、いつ最期になってもいいように、できる限り会いに来てあげてくださいとの言葉があった。
9月26日には東京に住む長男が帰省し、二男と3人で面会に通う日々が続いた。
施設では怯えて険しい表情を浮かべていた母は、病院では穏やかな表情になり、私や子供たちの声に反応して顔を向けてくれるようになっていた。
『見えてるね、聞こえるね、子供たち会いに来たよ。明日も来るからね、お母さん、ちゃんと待っててね。』
毎日手を握って、そんな風に伝えた。
残り僅かと言われ、通夜葬儀を覚悟して10日ほどの予定で帰省した長男だったけど、よほど母は私たちが会いにいくのを楽しみにしていてくれたのだろう。
点滴を外して3週間が過ぎても、母はがんばって私たちが来るのを待っていてくれた。
そして、そんな母のおかげで、私たち家族は久しぶりに3人で一緒に時間を過ごすことができた。
3週間の間、毎日たくさんお別れが出来た長男は、仕事の都合もあり10月12日に東京へ帰って行った。
そして、2024年10月19日午前4時13分。
最愛の夫である父の誕生日に、母は81歳で永眠した。
少しずつ呼吸が弱くなり、心拍が落ちていき、穏やかに眠るような最期だった。
息を引き取る前に
『お母さん、私を産んでくれてありがとう。お母さんの子供で、私は本当に幸せだったよ。たくさんたくさん、ありがとう。大好きだよ、お母さん。』と、
伝えたかったことをちゃんと伝えることができて、本当によかったと思う。
母が亡くなった後、エンゼルケアと呼ばれる死後の処置を、病院の配慮で看護師である二男が一緒に行わせてもらうことができた。
最後に孫に身体を綺麗にしてもらって、きっと、母も喜んでいると思う。
棺の中の母は、穏やかに笑っていた。
病院から斎場に移り、亡くなった日の夜はささやかに父の83歳の誕生日祝いをした。
父と母、兄、私、そして二男の5人分のケーキを買って。きっと母は、一緒にお祝いをしたくてこの日まで頑張ったと思うから。
長年の闘病で、ふくよかだった母は痩せ細り、昔の面影はなくなってしまったけれど、祭壇で笑う母はやっぱり太陽のように優しく笑う母だった。
私は、太陽を失った。
だけど、母からの愛情や温もりは、ちゃんと私の中に残ってる。
母がずっとそうであったように、私も太陽のようでありたいと思った。
母が、これからも私の中で生き続けられるように。
母へ、ありったけの感謝の気持ちをこめて。
2024.10.22
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