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「許す人」は同時に「責める人」でもある

なんとなくもやっと心に残り続けているもの。
心にチクっとした痛みを感じたり、ときに体が重く感じたり、集中できなくなったり。いろんなやり方で自分が教えてくれる違和感。

わたしはかつて、こうしたもやっとしたものや、違和感を押し込めて生きていた時期が長くありました。違和感は我慢するものだと思っていたし、わざわざ向き合うことで起きる面倒なこと、きまずいことを避けたいという気持ちもありました。

30代後半からコーチングやカウンセリングを学び、自分の中にあるもやもやや違和感にフタをすることは、自分自身から目を逸らしていることになり、ひいては自分の人生を生ききっていないことになると知りました。

多くの人たちに助けてもらいながら、涙や汗や鼻水まみれになって、みてみぬふりをしてきたところに少しずつ光をあて、自分についての理解を深めてきました。いまは目につく大きめのもやっと感や違和感はだいぶクリアになり、視界良好になってきています。

とはいえ、思いもかけないタイミングで、自分の中にまだある違和感に出会うこともあります。つい先日も、ある本を読んでいる時に、ずっと私の中にあり続けた小さな違和感に向き合うことになりました。

それは「許す」ということに対する、ちいさな、そしてなんとも言えないもやっとした感覚でした。


書籍「マインドフル・ボディ」で書かれている「許す」ということ

「許す」ということに向き合うきっかけになったのは、ハーバード大学教授のエレン・J・ランガーさんの「マインドフル・ボディ」という本です。

以前のnoteでもご紹介した「エレベータのドアは自動で閉まるものなのに、なぜ人は閉めるボタンを押すのか」という話もこの本からの引用です。このnoteです。

人は、思い通りにいかないことが増えてきてストレスが高まると、せめてエレベータのドアくらい自分の思い通りに動かしたい、という無意識の気持ちが働いて、閉めるボタンを押してしまうのだそうです。

詳しくはnoteを読んでみてくださいね。

このエレベータの閉めるボタンの話以外にも、ハッとするような気づきがたくさんある本でして、今回のnoteで書いてみたいのは「許す」ということについてです。

許すということについて、このように書かれています。

許すということは「許さないという責める感情」ありきのもの。
そもそも「許す」という行為の前には、「責める」気持ちがある。
相手や自分を理解しようとする視点なら「この人はそうなんだな」と責める気持ち自体がなくなり、許すことも不要になる。

「マインドフル・ボディ」第5章 「責めることと許すこと」より一部抜粋

この部分を読んでかなり「うっ」ときました。

まさに私がずっと感じ続けていた小さな違和感がここにあるとわかったからです。

「許す」ということに対する違和感の正体

「許す」と聞いてどんなイメージがあるでしょうか。なんとなく、許さないよりも許すほうがいい、など、良いイメージがあるのではないかと思います。

「許す」という行為をするためには、何か許す対象となるものが必要です。「許せない!」と感じたり、「あの人が悪い」と責める相手があるからこそ、「許す」という行為が発生するのです。

「人を許す人」というのは、同時に「人を責める人」でもあるということなんです。

過去を振り返ると、誰かを許すことで乗り越えたと思っている出来事がいくつもありました。

子供の頃いじめられた経験であったり、仕事での理不尽な体験、誰かとの関係性における裏切り行為のようなもの。

こうした「許せない」と感じた出来事も、時間の経過とともに「許せる」「許した」と思えるようになり、乗り越えてきたと思っていました。

でもこの本を読んで自分の中に問いが生まれました。

私は本当に許すことができていたのだろうか。
本当に乗り越えていたのだろうか。
全てがクリアになっているのだろうか。

違和感からつながってつぎつぎ湧いてくる自分への問い

実はずっと、「許す」ということに対して小さな違和感があり続けていました。許したはずなのにずっと心に残り続けていることがありました。でも上述の通り、許すことは良いことであると考えていたので、深追いはしてこなかったのだと思います。それをこの本が気づかせてくれました。

私は許す人でもありながら、同時に相手を責める人でもあったのだと知りました。だからこそ、「許す」ということに対して、すばらしいことだ、辛い出来事を乗り越えたんだと言い切れない自分がいて、何かひっかかる感覚、違和感があったんだと思い至りました。

心理学を学び、人とのかかわりを学び、過去の辛い出来事を「許す」ことで受け入れてきたと自認していた私にとって、これはぐっさりと刺さりました。

何も心当たりがなければ刺さりません。

確かに、私は「許した」と思っている相手に対して、まだどこかに責める気持ちがある。

私は相手を十分に理解しようとすることをやめて(またはあきらめて)、自分の中にある「責める気持ち」に対応する形で「許す」ということにして、終わりにしようとしていたのだと気づきました。

これが、許したはずなのに何かがずっと引っかかり続けている、違和感の正体でした。

自分に起きていたことと、私が願っていること

許すということについて、私の中の違和感の正体がわかったところで、では何があればこの違和感が消えるのか。

それが「相手を理解すること」とエレンさんは言っています。

相手の振る舞いを、その人の視点で自分なりに理解することができれば、責めるという気持ち自体が生まれず、許す必要もなくなるということなのです。

人の行動にはなにかしらの理由があります。

相手がなぜそのようなふるまいをしたのか、純粋な好奇心をもって相手の立場で理解することができたら、その人が本当に願っていることを知ることができたら

なにがその人にそんな行動をさせたのかも理解できます。

もちろん他人のことを100%理解することはできません。
でも、「理解しよう」とする姿勢を持ち、理解しようとすることを諦めずにかかわりつづけることができたら、責める気持ちが一度うまれたとしても、その気持ちは少しずつ消化・昇華していき、いずれ許す・許さないという垣根もなくなり、人生の糧にしていけるのではないでしょうか。

この世界観は、まさに私の生きる世界、実現したい世界です。

私がコーチという生き方を選択しているのは、人に対する飽くなき好奇心と、ひとりひとりが生きるそれぞれの人生への畏怖の念があるからです。

出会うすべての人がみんな違っていて、それぞれの人生を生き、それぞれの願いに生きている。だからこそ、人はあるがままで良いし、自分とは違う他者とかかわりあうことで人生が彩られ、世界も可能性も広がっていく

私はひとりひとりの人生に触れさせてもらい、その人の生きざまを尊重し、本当の願いが叶うよう、もてるすべてをもって伴走させてもらっています。

それなのに、個人的なことになると相手を責める気持ちを持ち続け、許すということにして片付けようとしていたんです。自己一致していないからこその違和感につながっていました。

古い傷を抉るようなプロセスにもなったので、少々の痛みも伴い、お馴染みの自己批判がやってきたりもしました(笑)自分に起きていたことを知ってショックでしたが、許すということについて小さく心につかえていたものがスッと流れていった感じがしています。

人生後半になっても、まだ見ぬ自分との出会いがしょっちゅうあります。今日はその一つのエピソードを書いてみました。

みなさんは、許すということについてどのように考えていますか。
もしよかったら、コメントでお考えをきかせてくださいね。


直ちに対応する必要はないけど、ずっと引っ掛かっている小さな違和感って、誰にでもあるものです。

もしよければ個別相談でお話をきかせてください。

そのままでも生きていくことはできるけど、違和感の正体を知ることで、今回の私のように自分に対する理解がまた一歩深まります。

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Voicyのミアビータチャンネルで毎週土曜朝8時のパーソナリティを担当しています。
Voicy配信後音声では説明しきれない部分など、毎回加筆して作成しているのがこのnoteです。Voicyのほうもお時間がある時にぜひ聴いてみてくださいね。

最後まで読んでいただきありがとうございます。もしよかったら、感想や気づきなど残していただけると励みになります。