『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』は「あなたが私に竹槍で突き殺される前に」に反転させるべき?
李龍徳著『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』(河出書房新社)を読んで感じたことを書きます。
在日文学の第3世代
私は20代の頃、金達寿、金石範、李恢成をはじめとする在日朝鮮人文学を読み漁りほぼ読破した。それほどまでに在日文学が私を魅了したのは、私が大きな影響を受けた戦後文学の一角を在日文学が占めていたことも大きかったが、私にとっては過去の歴史に属するそれら個々の物語への知的欲求が強かったこともあるだろう。
したがって、時代が下り、李良枝、柳美里らの在日文学第2世代になると、第1世代が持っていた差別への告発や政治性、社会性といった全体小説的なスケール感が失われ、作品がより個人主義化、内面化していくのに合わせて、私の在日文学への興味も削がれていった。
ふたつの「居心地の悪さ」
800枚近い大作である李龍徳の『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』は、第1世代、第2世代の在日文学とも異なる、ひと言でいって「政治小説」的色彩の濃い作品だ。私が本書を読み始めて感じたある種の「居心地の悪さ」の原因は、もしかするとそのことと関係しているのかもしれない。なぜなら、私が耽溺した第1世代の在日文学は、強い政治的メッセージを発しながらも、一方で、底辺に生きる在日韓国・朝鮮人の生活が活写されていた。しかし、本書に登場する人物たちは、いってみれば政治活動家たちであり、しかも食うに困らない経済的にはけっこう恵まれた境遇にある人々だ。「政治の幅は生活の幅より広くない」というのが戦後文学の共通認識であったが、本書は、あるいは意図的にか、狭い「政治」の世界のみを描いている。
もうひとつ私が感じた「居心地の悪さ」の原因は、第1世代の在日文学が、私にとって過去の歴史に対する知的欲求を満たしてくれるある意味無害な存在であったのに反して、この作品の世界は紛れもなく現在もしくは現在と地続きの近未来であることと関係していよう。
10年ほど前から、とりわけアベ政治の時代になってから猖獗を極めるようになったヘイトスピーチやヘイトデモ、「嫌韓ブーム」、さらには「従軍慰安婦」問題や徴用工裁判、レーダー照射事件等をきっかけとした日韓の外交関係の悪化等、それ以前の10年間に見られた韓流ブームからは想像もつかないような息苦しい現実がある。その意味で、私自身もこの作品世界から自由ではいられないのだ。
作品を貫くマッチョイズム
とにかく、前半の400枚くらい、私は読み進めるのがとても難儀であった。本の帯に書かれた「1ページごとに、震えが走る」というコピーが空々しくさえ感じられた。特に私の感性に合わないと感じたのは、映画「パッチギ!」の世界観にも通じる作品を貫くマッチョイズムだろうか。登場人物の大半が20代、30代の広い意味でのマッチョな男たちで、女性の登場人物も、中心的人物のひとりである朴梨花を除くと、男の意のままに動く女か、男にふられて自殺してしまうよなか弱い女……。さらには、物語自体も、いくつかの断片が一向にひとつの流れへとつながっていかないもどかしさが、私に苛立ちに近い感情を覚えさせた。
そんな私が、ようやく物語に入り込めるようになったのは、後半に入っての金泰守の章からだった。ここで、これまでとは違ったタイプの人物、フェミニストでありビーガンである金茉耶が登場する。そこから、物語はこれまでの個々の断片がひとつにつながって大団円へと至る仕組みになっている。
中途半端なディストピア
しかし、物語の結末は、私が予期していたものとは大きく異なっていた。もちろんそれは悪いことではない。読者の予想通りの結末しか描けない小説なら、三流小説のそしりを免れまい。だが、その結末のつけ方に、私は不完全燃焼のようなモヤモヤを覚えざるを得なかったのだ。
そこで気づかされたのが、最初センセーショナルに感じた『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』というタイトルは、実は「あなたが私に竹槍で突き殺される前に」であるべきだったのではなのか、という疑問だった。
本書に登場する人物はことごとくニヒリストといってもいい。だったら、こんなある種中途半端でヒューマニスティックな結末でいいのだろうか。そこに込められた作者の戦略的意図は分からなくはないが、ヘイトが文字通り国家・社会を半ば以上支配しているような世の中で、これはあまりに敗北主義的であり、かつあまりに「心優しすぎる」決着のつけかたではないのか。たとえ憎悪が憎悪を呼び、血を血で洗う凄惨な社会を引き寄せることになったとしても、そのような結末を描いてこそ、完膚なきまでのディストピア小説たり得たのではなかろうか。
柏木葵の謎
ちなみに、最後に決定的な役割を演じる柏木葵(主人公・柏木太一の妻)について、一切内面描写が省かれている。それは作者の意図によるものなのか。であったとしても、これはこの作品にとって決定的な瑕疵にほかならないと思う。なぜ日本人である彼女がああいう思想を抱くに至り、しかもオルガナイザーとしての能力に長けた冷徹な太一さえも感化し得たのか、その辺の掘り下げが不可欠だと思われる。
さらに付言すれば、冒頭、韓国への「帰国事業」へ向けて旅立つ朴梨花らのグループのうち、自殺してしまうマ・スミについても描写不足の感が拭えない。韓国での新しい生活、新しい「運動」へ向けて希望を持っての旅立ちであったはずなのに、男に振られただけで玄界灘に身を投げてしまうなんて、ちょっと女をバカにしすぎていやしないか。そうでないというのなら、やはり彼女をもっとていねいに描かなければいけないだろう。それだけではない、朴梨花を含め、私には、女性の登場人物の存在感・実在感が希薄過ぎるように思えてならないのだ。そんななかで、唯一リアリティを感じさせる女性が、兄の金泰守を主語に間接的に語られる殺された金茉耶というのも皮肉なことだ。
政治を超える文化の力を信じて
私は本書を朝日新聞の記事を読んで購入した(時代に書かされた「ヘイト」の国 李龍徳さん「あなたが私を竹槍で突き殺す前に」、「朝日新聞デジタル」4月1日)。その記事のなかで、作者が「書店にはこの本をヘイト本の隣に置いてほしいと思っているんですよ。(中略)間違って手に取っていただいてそれで構わないから」と述べている。作者の創作意図が伝わってくる。
しかし、もし作者が少しでも、作中の朴梨花の言葉を借りるなら、小説を通して「この世界を動かす」ことを「冗談半分」にでも考えているのだとしたら、それは違うように思う。一方で、もし仮に、この作品にそのような意図が隠されているのだとしたら、なおさら本作は『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』ではなく、『あなたが私に竹槍で突き殺される前に』として書かれるべきだったとも思う。
だが、もとより私はそのようなディストピアを望まない。それどころか、日韓関係、韓国ヘイトに塗れた汚穢のような日本社会の変革を望むし、その先にあるユートピアさえ夢見る。
だからといって、日本人の私に、本書に対抗するような徹底したディストピア小説もしくは至上のユートピア小説が書けるわけではない。しかし、例えばニューカマーの母親と日本人の父親の間に生まれた私の娘がもし小説を書いたら、あるいはKポップや韓国コスメを愛する日本人の少女が韓国人の若者と恋に落ち、そのことを小説に書いたとしたら……、と想像すると、むしろ絶望的な現実を変える力はそちらの方にこそあるのではないか、などと夢想するのだ。
いや、違う。私は、彼女ら、彼らの存在そのものにこそ、ヘイトまみれの現実を変える力があると信じたいのだ。政治は怖い。人を殺す。だが、政治は脆い。一夜にして崩れ去ることもある。しかし、人と人とのつながりや文化は、一朝一夕で変えることはできないのだから。