意味・規準にも対象がある
前回(規準があって対象があるのではなく、対象があって規準が導かれる)の続き・・・もう一度『真理という謎』より。
・・・対象として同定するための規準は「対象」(の観察)からもたらされるという話を前回した。ではその基準とは具体的にどういうものであろうか?
上林洋二著「固有名の意味論」(『「文学部紀要」文教大学文学部』 14-1 号、2000年、44~53ページ)からの引用である。(フレーゲ、固有名でヒットしたので・・・)
・・・それらを固有名の「意味」というのであれば、「人間」「ギリシヤ人」「哲学者」「プラトンの弟子」それぞれの言葉に対し何らかの「対象」というものが実際ある。人間という言葉に対応する対象というものがない、という人はまさかいないであろう。
要するに固有名詞であっても一般名詞であっても、さらには述語であっても、何らかの対象というものがあって、それが意味になるということなのである。
そして「意味」というものは言葉で示されがちであるが、それが実際に「意味」であるためには、そこに何らかの具体的対象がある、そういうことなのだ。
フレーゲやその継承者たちはこの事実をどう考えているのであろうか?
固有名でないが、「三角形」とは何か・・・三本の線分で囲まれた図形と言えようか。三本の線分という”規準”で四角やら五角形やらと区別できるわけである。
仮にそれが三角形の「意味」であるというのであれば、三本の線分という「意味」にも具体的対象というものが実際にある。その対象があるからこそ「三本の線分」という言葉を”理解”できるのである。
また、前回の記事で私が説明した「青」という名詞に関しても、「~は青い」ならば述語となる。だがいずれにせよ「青い」あるいは「青」という言葉が具体的に何を指しているのか、その対象を理解しているからこそ「青い」を含む文章を理解することができるのである。
きちんと前回と今回の記事を読んだ人ならば理解していただけると思うが、私の見解は以下のフレーゲの正反対である。
・・・学術的にも定義というものが既にしっかりと形成されている(定められている)対象に関しては、意味が対象を決定するというように思える場面があるかもしれない。あるいは未知のものを推測した上で発見する、というふうに定義づけから対象へという場面もあろう。
こういった事例から、意味や規準が先にあって対象がそれによって決められていると考える人がいるかもしれない。しかしここで間違えてならないのは、一般的にはまず定義や意味を見出そうとする場合、結局その対象(の観察)から見出すしか他に出所がないということである。
しかし上記のアリストテレスのような歴史上の人物であれば当人を観察することもできないし(彫像は観察できるが)、アリストテレスについて書かれた書物、アリストテレスが書いた書物、あるいはその他さまざまな断片的な情報からアリストテレスという人物の全体像を見出すしかない。しかしそれでもアリストテレスという「対象」がまずありき、そしてその対象に属する・関連する情報がその対象の「意味」となっていくのである。
さらに言えばその定義や意味・規準とは何かを説明しようとすれば、やはり具体的対象を持ち出して説明するしかないのである。例えば「長さ50cmである」と説明するとき、では50cmとは何かと聞かれれば、実際に物差しやら巻き尺を持ってきてこれが50cmです、と具体的に示すしかない。「首が長い」のが「キリン」の意味・規準の一つであるとすれば、「長い首」というものは何かと聞かれれば、やはり具体的事物あるいは図、絵や写真で示すしかない。
とにもかくにも結局こういうことなのだ。(そういうことで、上記上林氏の論文で取り扱われている事柄、固有名には意味があるのかないのか、というふうな議論をする「意味」が分からないのだが・・・対象のある言葉には意味があり、それは固有名でも一般名でも述語でも同じことなのである。)
そしてここまでいくつか読んでみて、まだはっきりしないのが「対象」とは何か、ということである。フレーゲはこのあたり厳密に考察したのだろうか?
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