完全性は論理の正しさを担保するものではない(当たり前か・・・?)
コメントへの回答しばらくお待ちください。今ちょっと余裕がない・・・
設定されたトートロジー
今、命題論理の完全性について色々調べているところです。
健全性については野矢氏の『論理学』で説明されていますが(でも違和感は残る)、完全性については説明がないので・・・
https://www.youtube.com/live/GIzENDMMJE4?feature=share
・・・ではとても丁寧に説明がなされているのですが、この動画では(証明探索樹のところ)、その論理式がトートロジーか否かを検証する方法が示されているだけで、「(すべての)証明不可能な論理式はトートロジーではない」の証明にはなっていない気がするのですが・・・
私の理解不足かもしれないので、私に教えてやろう!という奇特な方がもしいらっしゃればお願いします・・・
ただ、私がここで言えるのは、命題論理の完全性を証明する過程において、(¬A∨B)≡(A→B)という設定(排反的選言ではなく両立的選言を選んでいることも)や、条件法(A→B)の真理値設定(前件が偽の場合全体が真になるという設定)がフルに活用されているということです。
完全性については前原昭二さんの『記号論理入門』(日本評論社)でも説明されていますが、ここでも当然条件法の真理値設定が重要な役割を担っています。
ウカシェビッチの公理系にいたっては、条件法の真理値設定を最大限に利用しているように思えます。
健全性の検証においても、ある公理の検証に他の公理を用いているなど、公理どうしの融通性(?)というものも考慮されている気がします。
・・・論理学におけるトートロジーとは、本当に”恒真”なのではなく、完全性・健全性ありきの人為的設定のように思えるのです。
条件法の真理値が考えられた頃に完全性という考え方がまだなかったかもしれませんが・・・結果としてそういうことになっているのも事実です。
勘違いしてはならないのは、「完全性」は論理の正しさを担保するものではないということです。「完全性」を優先すると実際の真偽関係(世界のあり方によりもたらされる論理空間)と乖離してしまう可能性がある、ということです。
戸田山さんの『論理学をつくる』では完全性についてや条件法の真理値に関する説明もあるようなので、そのうち見てみるかなぁ・・・
規則・ルールで演繹はできない
□→△、という規則・ルールというものを設定したとします。しかし、それを何かの演繹論理に用いることができるでしょうか?
できるわけがありません。何のことだか意味がわからないからです。
それが演繹に用いられるためには、□→△が論理たりうる論理空間というものが必要なのです。