9/2 脳鳴りと願い。
感情日記 9月2日
相も変わらず自分の文章をまとめ上げる力の無さにうんざりしてしまう。頭の中にある書き出したいことが、3,4割くらいしかかけていない。もっと吐き出したいこと、書き出したいことはやまほどあるはずなのに、何もかけていない。そんなふうにモガモガしている。
こんなにも自分の中に人に伝えたいことがあるのに、言いたいことがあるのに、何一つ伝えられている感じがしないもやもやは、一体どうすれば払拭されるのだろうか。全力ですべてを伝えようとすることに、何を躊躇うことがあるのだろうか。
長年ブログを書いていてわかる。文字の間隔、文章の切れ目、句読点、読み書き、構成。すべてが今の自分には上手くハマっていない感覚が否めない。どうも、居心地が悪い。自分が書きたい文章100%が書けている感覚がまるでない。これほどモヤモヤすることがあるだろうか。
実際アメブロで何年も書き続けていたからnoteでの投稿はまだあまり慣れていない。空間の開け方、読み方、その他太字やリンク、写真の統一性など、自分が望むようなコンテンツにはやりきれていないモヤモヤ感がある。
スマホで書いているから、というのもあるだろう。あとは自分の精神状態によって口調もタイトルも書きたいことも全部変わるから、記事ごとに人格が変わるかのような感覚を持っていてまるで統一感を感じられない。そんな自分に嫌気がさしているのも何回目だろうか。
すべてが中途半端で、全てが熱中しきれない。どこかで必ず止まって、全部そこそこできるくらいのものになる。それじゃあ意味がないんだ。自分の中に何か、こいつと本気で向き合うんだ、って思えるような何かがほしい。ただそれは、一人でやるにはあまりにも自分の力量がなさすぎる。私は必ず、誰か他の人とやることで力が発揮される人間なんだと自分で考えている。一人だと、何も動けない。進めない。自主練習は好きだけれど、それはチームでの練習や仲間の存在があってこそだと思う。
一人で動ける人間は、自分の中にとてつもない自信や揺るぎない何かを持っているか、もしくは近くにそれを支える人間がいるかだ。私もこの3年間、何度も一人で自分で揺るぎない何かを考え持ちながら前に進もうとしたけれど、どこかで絶対に折れる。折れるのはむしろ当たり前なのかもしれない。折れないジャンプ漫画の主人公的な人間は、私は残念ながら当てはまらない人間である。
だからといって主人公になることをやめているわけではない。2枚目でも3枚目でもなく、自分の人生の主人公は自分だ。ただ、あのような自尊心MAX, 自信MAXで純粋な心がはなから備わった人間ではないということが言いたいだけ。誰も主人公の座を譲ったわけではない。自分には自分なりの戦い方があって、自分には自分なりの人生の進め方があるのだ。
20歳目前にして、まだ地団駄を踏んでいる。何かを始めようとするたび、壁があり、それを乗り越えることを極度に恐れる。自分一人では到底できないことを自覚していつつも、どこか自分でできるんじゃないかと考えて行動し、失敗する。それの繰り返しのような気がする。
自分の中に住む自己否定の魔物は、今も消えていない。共存しながら進むしかないのだろう。ときにそいつが強く出てくると、自分のコントロールを失う。何をするにも怖くなり、自分でも心がなくなるのが感覚でわかる。ただ、それを言葉にできるほどの自分の体をコントロールできるわけでもないから、周りからすればはた迷惑に無視したり拒否したり返信しなかったりする人間に見えるんだろう。
それでも仕方がないと思うくらい、自分は誰かに乗っ取られているという感覚になる。おそらく自分だけじゃないだろう。色んな人が、この感覚を経験しているはずだ。
それを理解してもらえることは、少ない社会だと残念ながら思う。どのストーリーも、漫画も、自分の中に自尊心がある前提で作られているもの。頭の中で恐れが強すぎて飲み込まれたり、自己否定が強すぎて人格が変わったり、精神疾患になることを事細かに書いた作品や漫画は、私はまだ出会ったことがない。そんな作品が世の中にも出回るようになればいいなと思うし、そういう作品が表に出て注目の的を浴びるようになれば、少しはこの社会で生き辛さを抱えている人たちの焦燥や不安感を和らげる薬になるだろうと思う。そして私も願うならば、そういう作品と関わりたいし向き合いたいと思う。ただ、自分自身が自分をコントロールできない中で仕事をすることは、自分にとっても相手にとっても大きなリスクだ。
私が仕事を自分からしない理由は、ここにある。自分自身をコントロールできなくなる瞬間が、いつ来るかわからない。それに対する対処方法もわからない。その中で仕事をすれば、私はたちまち音信不通になり、人に迷惑をかけることを自分が身にしみて感じているからだ。仕事だけでなく何かのプロジェクトであったり、約束事も、今の自分では到底守れる自身がない。それならば最初から始めないほうが、相手のためでもあると自負しているのだ。
でもまあ簡単に言えば、逃げているだけだ。本当に大切なことから、今の私は逃げている。
どれだけ逃げたとしても、向き合うべきものが変わることはない。自分という人生と、それに関わる周りの人間と真剣に向き合えないようであれば、自分の人生に満足することは決してないことは、自分の中でも重々に承知している。
特に家族。自分の中で向き合うべきこと、向き合うべき人たちは決まっている。本気でぶつかりあうには勇気がいる。エネルギーがいる。覚悟がいる。自分の中に住む魔物と、向き合わなければならないからだ。
ただ、逃げる時期があることも間違いではないことを私は断言したい。
逃げることすらも許さない人間は、向き合うこともできないからだ。
人が本当に戦いや恐怖と向き合えるようになるのは、逃げている現状を受け止めることから始まると思う。逃げられるだけ逃げて、足を止めて、いずれその障害に否が応でも向き合わないといけない時期がくる。一生自分と付き合うのだから、逃げられるだけ逃げたらいいと思うのだ。
といいつつも、20歳目前になってもまだ逃げている自分のことには、少々嫌気が差している部分も正直ある。15歳の頃から気づいていたはずだ。自分が本当に向き合うべきものが何かを。
ほらまた、自分の中で何もまとまらない中書き出して読みにくい文章になった。
これはきっと誰にも読まれないだろう。読めないだろう。それでもいい。今の自分を記録せずには、自分の中身が消えてしまいそうな感覚になっているんだ。この自分の現状を事細かに記憶することは難しい。数年後に振り返るときに、こんな感情や思考だったことを思い出したいんだ。今の自分とは全く違う自分になっている気がするから。
どこまでいっても、自分は自分。3年後の自分は向き合えているのか、それとも逃げたままの自分なのか。向き合って、逃げることを繰り返しているのか。まだ何もわからないけれど、向き合い続ける人生を選んでほしいと思う。大切な人たちを大切にしながら、一つずつひとつずつ自分の向き合いたいものに対して真摯に向き合える人間であってほしいと、19歳の私は願っている。
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