1年間

新型コロナウイルスの影響で、外出自粛期間が長く続く。
いつも以上に時間があるので、学生時代のバスケットボールの試合を振り返る。これまでは1試合を見るのが時間と忍耐の限界だったけれど、今は平気で2、3試合ぶっ通しで見る。
そしてあることに気が付く。

成長スピードがはやいこと。
特に、高校1年生の冬から→高校2年生の冬(ウインターカップ)。この1年間の成長が著しく、見ていてすごく面白い。

この1年間について、今日はゆっくり考えてみようと思う。

まずは、1年生の冬から変わったこと。
・試合のスタートになったこと
・兄が卒業(引退)したこと

これ以外ないということは、、、
環境の変化がここまでの成長を促すということに気づかされる。

まず、試合のスタートになったということは、言葉だけを見ると、最初の5人になった(役割をもらった)だけだが、京北中高の特徴として、京北中学からは高校へは、9割程度進学するため、中学校での立ち位置は、余程のことがない限り、変わらない。そのことを深く受け止め、重い責任を感じた。中学2年生の時にスタートになれなかった僕が、3年後にスタートを勝ち取った瞬間だった。
この瞬間は、突然訪れたものだが、高校1年生のウインターカップ、メインコートで北陸に負けた夜、ホテルでの夕食時でのことだった。
2週間後には、新人戦が始まるとのことで、次年度のスタートを田渡先生から発表された。「ジェシィ、徹、凌、最上、、、慶次郎」このメンバーをスタートとしていく。

全国大会が終わっても、すぐに練習が再開されるのが京北高校の常。
昨日まで最前線で戦っていた3年生(含む兄)相手に試合をする。もちろん通用しないことが多い中で、怒られながら必死にスタートのポジションを死守していた記憶がある。10回の練習よりも、1試合のが得られるものがたくさんある。そんな気がした1年間だった。

それと兄が卒業というのも僕にとっては大きかった出来事だ。
僕が中学2年生になった時に、京北高校に入学をしてきた兄。そこから3年間は行き帰りは一緒だったため、過ごす時間は長かった。
兄弟喧嘩エピソードは、僕が生意気な態度をとったために、植木に投げ入れられたこと。泣きながらコンビニで毎日購入していたリプトンのマスカットティーを購入した記憶がある。これが最後の兄弟喧嘩だった。
当時は死ぬほど兄貴が嫌だったし、ウザかったけど、今では本当に尊敬をしている。それは、自分が高校1年生の時の出来事だった。

前置として、兄と僕はポジションが全然異なる。シュートは兄貴、ドリブルは僕というように、得意なことがまるで異なった。(兄貴はびっくりするぐらい、ドリブルが出来なかった。とは言っても、東京No1高校のエース。)
ある日の朝練習での出来事だった。僕が高校1年生で、兄貴が高校3年生。突然、「ねぇねぇ慶次郎、俺にドリブルを教えてくれ」。
頭の中が、「は?」となった記憶がある。
僕は、現代のストリートの方々のようなハンドリングは持ち合わせていなかったが、少ないドリブルで相手を揺さぶることには自信があった。池田慶次郎にドリブルのイメージはあまりないと思いますが、困ったことはないです。

この出来事で、兄貴に対する見方が180度変化した。
簡単に申し上げると、自分のプライド<チームのために技術の向上を選んだということだ。他にも聞ける選手が絶対にいたはずだが、あえて僕に聞いてきたのだと思う。僕は、当時自分がコツコツとため込んだスキルを惜しみなく兄貴に伝えた。それが京北高校の前進に必ずつながるからだ。それと、無条件にうれしかったからだ。兄から頼られるというのはものすごく嬉しかった。
教えるという行為は、相手に伝えるために自分が無意識に気を付けていることが言語化されて、整理になるということもこの時に学ぶことができた。そのお陰で自分のプレーも随分洗練された。
そして、伝えたことが実践できているかという兄貴(=人)への興味を持つようになり、より深く観察するようになり、それがゲームの流れを見る力になった。

結果、全然分析できていないけど、書きたいことを書くnoteなのでOK。笑
でも、僕は環境が変わると、その環境に順応しようと努力してきた、努力することが分かる。さらにそこに役割という責任が大きく成長させてきたのだと思う。

今はコロナで大変な時期。この環境に順応する努力が果たして自分にできているのかという自問自答の日々は続きそうです。

みなさん、Stay  Home。

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