「いまはもう、人生を語ろう」#07 1979年当時の浜松湖東高校の吹奏楽部は野球で言えばPL学園ぐらい、スゴかったのだった。
中学で吹奏楽部のトランペットを吹いていたので浜松湖東高校に入っても迷わず吹奏楽部に入った。中学のブラスの盟友、トロンボーンの花島、ホルンの松下もいっしょだった。中学のブラスの先輩も数人、湖東の吹奏楽部に入っていた。
中学の先生主導で、かつぬるめのブラスとは違って、湖東の吹奏楽は当時決してコンクールの成績は良くなかったが、すごく上手い先輩、すごく音楽的に突出した先輩たちがいた。ただしチームワークは悪かったように思う。トランペットの太田さん、ホルンの桜井さん、クラリネットの牧田さん。フルートの先輩も上手かったし、チューバで部長の先輩も頼れる先輩だった。
特に驚いたのがトランペットの太田さんで、太田さんが北星中学の時からとんでもなく甘く柔らかで滑らかなトランペットの人がいるなと思っていたんだが、それが太田さんで、湖東ブラスに来ていたのだった。
とにかくあれほどトランペットが上手い人を見たことはなかった。とにかく音が素晴らしい。
太田先輩はその後国立音大に進み、警察音楽隊(吹奏楽のプロ)を経て、今は浜松の高校の吹奏楽の顧問として指導者として活躍し、コンテストなどでも素晴らしい成績を上げている
今になって分かるが、俺は野球で言えば清原が先輩だったみたいなもんだ。太田さんのことは同時期に音大に行ったサックスの須川展也さんなど、みんな知っている、音大の世界でもスターだった。(このあたりのくありはまた別のお話にする)
で太田さんのお陰でトランペットは上達したものの、とにかく太田先輩とは圧倒的な差なので「自分は上手くない、ヘタクソだ」というようにどんどん劣等感が募っていった。同級生の竹村、大村のトランペットもそこそこ上手かったし、俺も上達はしていたが、それでも先輩は清原なわけだから、もうかなうわけはない。
たぶんそれが遠因となって、大学に進んだときにトランペットは吹かなくなってしまった。後にまたトランペットを吹くことになるが、それもまた別のお話、とする。
ただ吹奏楽部の思い出は暗いのか、というととんでもない。実に素晴らしい体験だったし、実に充実していたし、本当に楽しかったし、いまの音楽的な基礎、いや生きる姿勢の基礎を作ってもらったと感謝している。
素晴らしい先輩たちだけでなく同級生もみんな死ぬほど音楽が好きだった。
さっき清原の例を出したが、先輩たちも音大にいったり、サックスのヤマモトジョージ先輩のように自衛隊の音楽隊(吹奏楽のプロ)に入ったりと、活躍をされたし、俺の同級生も
・垣野内英弘、音大、フルートのプロ
・花島英三郎はプロのトロンボーン奏者としてビッグバンドに入った(紅白で目撃)
・パーカッションの森下幸路は、実はバイオリニストで、今は大阪交響楽団のコンサートマスター
・金子鉄心は京都の大学(その時メチャクチャお世話になった)から金鉄おかげさまブラザース、そして現在サクソフォンとイーリアンパイプとティンホイッスルのプロ、なんとギターを教えてくれた福島さんともアイリッシュでつながっている
・フルートの平野、ムラマツフルートでアーティスト担当、日本中のフルーティストを知っている
・1つ後輩の對馬は同じく浜松の中学の吹奏楽の指導者、顧問として活躍中
と、とにかくもの凄いプロ率であって、
決して名門吹奏楽部ではなかったのに、との近辺の学年だけなぜか凄腕が揃った。これは音楽のPL学園といってもいいのではないか。
そんな素晴らしい環境で切磋琢磨しながら演奏できたのは本当に素晴らしい体験だった。
こちら、高校の同級生森下幸路の取材記事、取材したのは俺。
↑そしてこちらが金子鉄心のホームページ
https://blog.goo.ne.jp/hoboike_diary/e/da0b6dff76b09ab12ae994201c6a0ca5
次回は吹奏楽部でのこと、特に吹奏楽部コンクールのことや浜松湖東高校吹奏楽部第1回演奏会のことを書くつもり。
さて、こちらが、私のアコースティックギターの最終到達点であった、マーティンのD-35。いいギターです。最近全然弾く機会がなくなってしまって、倉庫に入っていたのでもったいないと思い、友人の中古ギターショップに委託販売品としておいてもらっている。売れたら嬉しいが、売れなかったら一緒に燃やしてもらうか。いや、もったいないので、誰かに弾いてもらいたい。響がギターを弾ければ喜んで譲るんだが。
ギターショップ浜松ビレッジにある俺のマーティン D-35
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