【ショートショート】価値を量る店
街はずれに、ひっそりとした店があった。
看板もなく、のれんもない。口コミだけで伝わる、不思議な店。
「価値を量る店」と呼ばれているその場所に、山田は夜な夜な足を運んでいた。
昼間は大手企業の営業部長として、部下たちの前では威厳を保ち、数字を追い続ける毎日。
でも、その実態は年々増える若手との給与格差に、自分の存在価値を見失いかけていた中年のサラリーマンだった。
店主は、いつも黒縁の眼鏡をかけた静かな男性で、幼い娘が店の隅でお絵描きをしていることもある。
山田が入店すると、娘は無邪気に顔を上げて微笑み、店主は丁寧に古びた天秤を取り出す。
「今日は何を量りましょうか」
そう問われる度に、山田は自分の持ち物の中から、何かを差し出すのだった。
ある日は、やっと手に入れた部長昇進の辞令を持って行った。
天秤の片方に置かれた昇進辞令は、予想以上に軽かった。
しかし、もう片方の皿には、残業を減らすために効率化を進めた日々や、部下との何気ない会話、家族と過ごした週末の温もりが、かすかな光を放ちながら溜まっていった。
また別の日には、新しい高級車の見積書を持って行った。確かに重みはあった。でも、反対の皿には、古い軽自動車で家族と行った思い出の旅行や、娘を送り迎えした日々が、優しい音を立てて積もっていった。
山田は黙って天秤を見つめていた。
店主も何も言わず、ただ静かに天秤の揺れが収まるのを待っている。
店の隅では、店主の娘が眠そうな目をこすっている。
店主が優しく娘を抱き上げる姿を見て、山田は自分の娘が小さかった頃を思い出していた。
あの頃は、こんなふうに抱きしめる時間があったのに。
帰り道、山田は会社の資料の入ったカバンを持ち直す。その重みが、いつもより少し軽く感じられた。
明日から、少し早く帰ろう。
そう思いながら、暗い街を歩いていった。
夜の街を歩きながら、山田は今日も例の店に向かっていた。
昼間のような慌ただしさは消え、静かな通りには街灯の明かりだけが落ちている。
会社の机の上には、まだ処理しきれない案件が山積みだ。
若い部下たちは、もう帰ってしまっただろう。
でも今の彼には、それを気にする余裕があった。
ドアを開けると、いつものように店主が天秤を磨いている姿が目に入る。 その手つきは丁寧で、まるで大切な宝物を扱うかのようだ。
それを見るたびに、山田の中で何かがゆっくりと落ち着いていく。
この店の中では、不思議と時間がゆっくり流れる。
誰かと比べる必要も、何かを証明する必要もない。
ただ、自分の中にある本当に大切なものと向き合える場所。それは、この店主が教えてくれた最初の贈り物かもしれなかった。
―― 今日は何を量ってもらおうか。
そう考えながら、彼は小さな入り口をくぐる。
自分の中の何かが、また少し軽くなる気がした。
了