二週間の休暇 #同じテーマで小説を書こう
長かった。
ここに至るまで、長い道のりだった。
シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムのことを知ったのは、会社で古い資料を広げていたときだ。その油絵に、私の目は釘付けになった。いくつもの稜線のさきに聳える白い三角錐は、神が彫刻刀で造形したかのように端整な姿をしている。山頂は万年雪なのだろう。氷河が削り取ったのか、そこから幾筋ものV字谷が開くように伸びていた。
そして私はいま、ようやくそれを目にしている。油絵ではない。現実のシュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム山だ。やはり絵と実物では印象が異なるのが面白い。谷の造形まで違って見える。格別の美しさにはかわりはないが。
「おはようございます。ご機嫌はいかがですか?」
麓にあるこの山荘に到着したのが先月のおわり。私の給仕をしてくれているマテオが、ワゴンを押してやってきた。カップとティーポッドが並んでいる。
「うん。とてもいいよ」
「それはよかった」
マテオの、若者らしい溌剌とした笑顔に癒される。
あの日以来、私の心にはシュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム山が住み着いてしまった。どうしても、ここに来たくて仕方がなかった。視覚だけでは物足りない。肌で温度を感じたい。鼓膜で空気の揺らぎに触りたい。氷河が閉じ込めていた気泡を胸いっぱいに吸い込みたい。一度そう思ってしまったら、もどかしさで心が焼けるようだった。
繁忙期をなんとか乗り越え、ようやく休暇を取れると思った矢先、新しいプロジェクトがはじまるという事業部長の一言で、私の夢は散ってしまった。
がむしゃらにプロジェクトを走らせ、事業部長に成果を突きつけて、なんとか二週間の休暇を勝ち取ったのだ。ネチネチと嫌味を言われたし、次の人員整理の対象にされたかもしれない。しかしそれでも、私の心に住み着いたあの景色は消すことができなかったのだ。
「もうすぐご帰国ですね」
「世話になったね、マテオ」
「旅の安全を祈っております」
「ありがとう。東京の雑踏に戻るかと思うと、少し憂鬱だけどね」
紅茶にわずかにミルクを垂らすと、カップのなかで雲のように広がり、斜面に沿って登ってくる。温度差で自然に攪拌されるのが面白い。日本で仕事をしているときは、そんなことに気づく余裕すらなかった。
紅茶のなかの雲は、いまちょうどシュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム山の東側にかかっているそれとそっくりだ。私はつい楽しくなってカップを天に掲げてしまった。
「私たち地元の人間は、あの山を誇りにしているんですよ」
マテオが微笑んでいる。
「うん。わかるよ。とても魅力的だもの」
「シピュナートゥヌ・サーラト・ス・ヨグルータム山は我々の揺り籠です」
私は若干の違和感をおぼえた。
「すまない。もう一度言ってくれないか」
「我々の揺り籠です」
「いや、そこじゃなくて。その前」
「シピュナートゥヌ・サーラト・ス・ヨグルータム山」
「シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム山では?」
「いいえ。シピュナートゥヌ・サーラト・ス・ヨグルータム山です」
「いや、シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタム山でしょ」
「いえいえ。シピュナートゥヌ・サーラト・ス・ヨグルータム山ですよ」
「え? どういうこと?」
「どうやらあなたが仰っているのは、イタリアとの国境付近にある別の山のことですね」
「え? まじで?」
そのとき、事業部長からメールが届いた。二週間のあいだに溜まった仕事を、まとめて送ってきたのだろう。膨大な量の添付ファイルがついていた。
マテオの困惑した顔と、謎の山と、遅々として進まないダウンロードのプログレスバーを、私は順番に眺めた。
紅茶はもう冷めている。
おわり(約1500文字)
これはなんですか?
こちらの企画に参加させていただきました。大変楽しいお題!ありがとうございました。