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一周まわって、きかない。べてるの家の技法以前。

きくことに関わってきた
きっかけは西村哲佳さんのインタビューの教室だった
そこから産業カウンセリングを学んだり、スウェーデンで対話を軸にリーダーシップを学んだり、きくことに傾倒していった。


きくことの基本の「き」って、相手が話をしたら、まず受けとめるっていうことは、大体の本に書いてあったりする。そんなもんだから育児でも、職業病も含めて、まずは受けとめる。


実例だとこんな感じ。


「おしっこをトイレの壁にかけたくなっちゃったんだね。」

「冷蔵庫を開けっぱなしにしてても、氷を取りたくなっちゃったんだね。」

「新しいクレヨンだから、廊下に描きたくなっちゃったんだよね。」


・・・・・


また、仕事としてもライフワークとしても、きく「場」に関わってきていた。きっかけなんかはないのだけれど、なんとなく役割の固定のようなモノがきになりはじめていた。わたしがあなたの話をきく時間「だけ」になってしまうような側面。その時間が好きで、いいときもある。けど、なんかモヤモヤするときもある、と感じはじめていたのだ。


そんな疑問を持ちつつ、北海道浦河にある「べてるの家」に伺ってきた。
べてるの家って、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点。べてるの家は、有限会社福祉 ショップべてる、社会福祉法人浦河べてるの家、NPO法人セルフサポートセンター浦河などの活動がある。中身は、昆布を売ってたり、カフェを運営してたり、グループホームだったり、本当に様々なことを行なっている。


こどもも見学OK(自分のこどもです。)



社会福祉の分野ときくことが、なぜ繋がるのかと感じるかもしれない。
けれど、べてるの活動理念に交差がある。べてるの家の理念はいくつかあって、その中の一つ、


三度の飯よりミーティング

三度の飯よりミーティング

「話し合う」ということは、大切な自己表現の場であると同時に、支え合いの場でもある。
べてるのメンバーが精神障害という病気をとおして経験してきた様々な危機は、「表現することの危機」でもあった。その意味で、話し合いの質が一人ひとりの生活の質に影響を与える。そしてその影響は、べてるの家ばかりでなく、べてるに連なるさまざまな人のつながりや、その場全体のコミュニケーションのあり方にも影響を与えるということを経験的に学んできた。
だから、「三度の飯よりミーティング」という理念に象徴されるように、ミーティングはべてるの家の生命線であると同時に、一人ひとりにとっての暮らしの生命線でもある。

べてるの家のHPより

実際にミーティングにも、ソーシャルスキルトレーニングというプログラムにも参加してきた。気づいたことは、べてるの家の関わり方は、ききあうことは、きく、だけじゃなくて、思ったことは、いう。
聞いてるようで聞いてなさそうだし、でも聞いてなそうだけど聞いてる。話たければ話すし、話したくなければ話さない。キャッチボールをしてるし、していない。受けてとめてるし、受けとめててもいない。

キャッチボールしても、なんか、キャッチしなくてもいい、という間柄が成り立っている感じがものすごくした。


SSTの様子


心から気のおけない友達との会話は、カウンセリングと同じ効果があるという俗説がある。その効果の前提に、心許せる仲間、なんだっていう信頼があると思う。信頼さえあれば、聞く技法とか、本当に聞いてる、受けとめてる、さえも後に来ること。
案内してくれた伊藤さんは、べてるに関わる人たちを「仲間」と呼んでいた。運営という立場にある人も、参加してる人たちも垣根ない共通の認識に感じた。そんな前提の認識があるべてるだからこそ、キャッチしなくてもいい、みたいな感じが成り立っているんだろう。


少しだけ育児に戻ると、前提ってなんなのかなっておもうと、やっぱり「愛」とか「好き」っていうことをちゃんと伝えていて、信頼があるっていうこと。
ややもすると、受けとめるのは、自分がしてほしい期待に誘導するような意図みたいなのものを感じて。そうすると、前提から遠くなっちゃうよな、と同時に反省した。
これは部下と上司でも、子供と親でも、先生と生徒でもどんな関係にでも当てはまる。コミュニケーションするときに、どんな前提があるのかっていうこと。その前提を、善くはぐぐみたい、という気持ちがないと、間違った方向にいっちゃう可能性大なのだ。



べてるの家の体験で、ききあったり、話たり、相互にコミュニケーションすることが、最初の好きってことをあらためて思い出した。この感覚は、西村さんのワークショップで、聞きあえた!って思ったときの感覚で、相手と一緒に話をしている世界に旅ができたような感じを思い出した。その場その場で作っているような感覚。お互いの貢献みたなのがあって、「場」を聞き合ってる人たちで「つくってる、はぐくんでる」っていう感覚。
この感覚って、べてるでいえば、キャッチしなくてもいいよねっていうところからスタートして、その土台の上でコミュニケーションのやり取りがされてるっていうことだよね。


ここまで考えてわかったのは、自分は前提が共有できていないこと、その土台の上で、お互いで作ってる感覚がない、一方的にきく「だけ」になっちゃうこと、にモヤモヤしていたんだなと気づきました。





追記
伊藤さんが教えてくれたエピソードでハッとしたエピソード。
精神福祉の家に対しての偏見の目について。
自分自身もこんなふうに中を見学したことははじめてだし、謎に包まれているイメージがあった。謎に包まれているとアレコレと憶測を飛ばす。憶測の中に、偏見も混じっている。
伊藤さんは、それは自分たちも持っているんですよっていうことを教えてくれた。外から見てる人も偏見があるように、中の人も外を見るときに偏見があるんですよ、と。
そんなもんだから、べてるの家では、大座談会をまちの人とべてるの家で行ったらしい。この座談会ってほんとすごい。





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