言葉での表現に伴走してくれる編集者さま、教えてください〜。
主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら
どストライクである。
著者が自分のアイデンティティを保つために、indeedのようなサイトで自分ができる仕事を検索するのに2時間かけていたっていうところに共感を覚えた。わかる、資本主義的な世界がメジャーな世界で、自分の価値がその評価軸の中でしか評価されない感じ。自分でもできるって感じることで自我を保つ。
いや、そもそもその評価軸だけに支配されすぎているのもおかしくね?っていう視点が抜け落ちるのである。
うまくいえないのだけれど、メジャーとされている領域の土台に立って、その土台が強化されていくようなことにあまり関心が向かなくなっている。この本の場合でいえば、著者が問いかけている側にある方だ。男性的社会構造、資本主義、家父長的な世界観たち。
著者は15冊の本から、聞かれてこなかった声を掘り起こしていく。この問いかけが痛快だ。家事・育児をする主夫として共感するところもあれば、そもそも足りてない視点、光を当ててこなかったところを掘り起こしていく姿そのものに、と感じた。
この本を読んで思い出したのは、キャロル・ギリガンの「もう一つの声」だ。去年再販され、題名が「もう一つの声で」に変わっていた。
ギリガンは発達心理学を学んでいた。そして、その領域では有名?なロールバーグを批判している。ロールバーグは心理学の領域で、人はどのような道徳的な発達をするのかという研究をしていた。
ギリガンはロールバーグの研究の解釈に疑問をもつ。
詳しくは割愛する。
端折っていうと、男性の道徳の解釈と女性の道徳の解釈が違うのにもかかわらず、男性の道徳の解釈が優れているという評価軸で結論づけるのはどうなの?という視点だ。この事例を「ハインツのジレンマ」という。(安井さんの論文を貼り付けている、詳しくは3.2を参照)
ギリガンは男性的な道徳解釈を正義の倫理とよんで、女性的な道徳解釈をケアの倫理とよんだ。ここでの倫理は、人を動かす哲学やOSと置き換えて考えてもいいと理解している。しばしばギリガンとフェミニズムの結節点はこの正義の倫理とケアを倫理の提唱からはじまったともいわれる。
自分が着目するのは構造的な視点。
そもそも実験する前提がどこか間違っていないかい?とギリガンが問いているところだ。
話をもっと大きくする。
以前、ケアを学んでいたときに出発点になった感覚がある。科学や理論の土台になっていることって、西欧・白人・男性みたいな世界観が強めじゃないかなっていう感覚。対話やリーダーシップでよく出てくる人たち、ブーバー、フーコー、オットー、ディビット・ボーム、全員が当てはまる。ギリガンでいう「もう一つの声」なかった?っていう感覚がたちあらわれる。
光があたってこなかったとされるほうに惹かれる。あたってこなかったほうから問いかけたい。そんな気持ちがむくむくしている。チョン・アウンさんみたいな構成で、学んでアンサーして、学んでアンサーして、みたいなことをしたい。どういう仕立てだと面白いのだろうか。一緒に考えてくれる人はいないかな。
主夫とフリーの狭間から見えてきた世界線を「言葉」で表現したい。今のところ。