汐の音
ただでさえ低い気温に、冷たい雨が寒さに拍車をかける二月のある夜。
友人と飲んでいた三軒茶屋のガヤついたバーで、僕は彼女と出会った。
たった1人、賑やかな空間があまりにも似合わないその人は、仕事でセックスをする女性だった。
その日初めて会ったのに、僕は見たことがあった。
彼女の顔も、そのセックスも。
官能的な体つきを際立たせる黒いタイトなワンピース。
鎖骨まで伸びた艶のある栗色の髪に、一切の雑音を感じさせない妖美な顔立ち。
低く色気のある抑揚の少ない冷たい声と、どんな表情をしていても、その奥に光を持たないように見える歪な瞳。
画面越しに観ていた印象とは全く違っていて、どこか不気味ささえ感じる彼女の魅惑的な佇まいに、僕は魅了された。
仕事でセックスをする彼女の姿を知っていて、自分が人一倍性的なことに純粋に興味と関心が深いと思っていた僕は、ウザがられないよう細心の注意を払いながら彼女とたくさん話していた気がする。
男女2対2の4人で、かなり派手にテキーラを煽って酔っ払った僕たちは、連絡先を交換して店を出た。
その後を期待して誘う僕に、「一夜で終わりたいの?」と言い放って帰った彼女は、家に着くと僕に電話をよこした。
互いにかなり酔っていて、細かく何を話したは覚えていない。
でも、「我慢するほど気持ち良いでしょ」という彼女の言葉だけは、鮮明に残っていた。
その日以来僕たちは、二人で映画を見に行ったり、食事をしたりバーに行ったりしたけれど、彼女と会うのは決まっていつも夜だった。
二人で会う四度目の夜。あれは確かバレンタインデーの日、バーでお酒を飲んでいた。
かなり深い時間、僕は素直に気持ちを伝えた。
美しい顔を少し綻ばせて「ありがとう、私も好きよ」と言った後彼女はこう続けた。
「でも来週の仕事で私は、他の男の人と色んなセックスをする。そしてその内容を君に詳しく話す。それを全て聞いたうえで、改めて君の気持ちを聞かせて。私の仕事は、どうしても恋人との関係に弊害を生むことが多い。愛してしまってから、一人にされるのはもう嫌なの」。
僕はどんな表情をすればいいのかわからないまま、「うん、わかった」と頷いた。
何故かわからないけど、彼女にはその圧倒的美貌と、社会的地位だけではなく、もっと手にしたかったものもあったはずなのに、どうしようもなくそれを育むことができずこれまで生きてきたような、そんな陰り。そしてその絶望を受け入れてきたのに、どこかでそれを諦めていないような心が見えた。
初めて会った日に、彼女から感じた歪なもの。
それはきっと、近づいてのめり込んだ先に待ち受ける、己の性や、それだけに留まらない様々な自我の崩壊の予感だ。
これまでずっと大好きだったセックスが、何故か最近つまらなく感じ始めていた僕。その先にどんな崩壊が自分に待ち受けていようと、この人を愛したい。と、もう既に思い始めていた。
収入なんて比べれば、きっと僕と彼女の差は数倍どころではない。
彼女が普段する生活には、到底僕が相応しくないことも察しがついていた。
でも、きっと僕にしか魅せられないものがあるとも思っていた。
だから僕は、彼女とたくさん話をした。
たまに彼女が見せる陰に、僕は自分の拙い知性と言葉で、必死に、でも静かに伝えようとした。
その話の数々は、ちぐはぐだったかもしれないし、聞く人からすればとても退屈だったかもしれないけれど、「この前読んだ本で」と話を始めがちな僕を見つめて、彼女はいつも大切そうに聞いてくれた。
そんな僕たちが、初めて体を重ねる日は突然やってきた。
とある月曜日の朝6時、その日休みだった僕は、彼女からの電話の着信で目を覚ました。
誰かと朝まで飲んでいた彼女は、僕に会いたいと言った。
まだちゃんと頭は働いていなかったけど、すぐに体を起こして、眠たい目を擦りながら支度をした。
週の始まりに嘆くような顔で職場へ向かっているスーツ姿の人達の中、僕は彼女が待つ新宿の高級ラブホテルに向かった。
夜通し一緒に酒を飲んでいたわけでもなく、朝のラブホテルで彼女と顔を合わせた僕は、どんな風に振る舞っていいのか分からず、ぎこちなくなっていたと思う。
そんな僕を見かねてか、彼女がシャワーを浴びようと言ってくれた。
僕の前で下着姿になった彼女。
画面越しに観ていたあの姿が、今目の前にある。
でも僕は、純粋に興奮を募らせるだけではいられなかった。
それまでに何度か二人で会い、色んな話をした。
セックスの話やこれまでの恋愛の話もたくさん。
少し変わった性癖を持っていた僕は、彼女の気を引こうと、まるで「僕は面白いセックスをしますよ」と言わんばかりに饒舌に語っていたと思う。
なのにいざ彼女とのセックスが目前になると、これで自分の価値を大きく推し量られる気がして、勝手に焦っていた。
体を洗い終えた彼女からバスルームの扉越しに、入っていいよと言われた僕は、服を脱いで扉を開けた。
首から下だけ軽く洗って、彼女の体が少し透けて見える、バスボムで薄紫色の湯船へ入った。
後ろから彼女を抱くように湯船に浸かると、きっとぎこちなかっただろう言葉をいくつか吐き、唇と手でその肉体に触れ始めた。
彼女の胸の脂肪は大きすぎて、湯船の中で少し浮いていた。
私も触っていい?と聞くと、その上品で美しい、少し小さな唇と舌を主に使って、彼女は僕の首から足のつま先まで全身を愛撫した。
たしかあの日、彼女の首筋にはヘアアイロンの火傷痕があった。
事を終えた僕は、憧れの女性と初めて体を交えた余韻に、浸ってなど全くいなかった。それどころか、絶望していた。
今となっては恥じる話でしかないが、僕は自分の事をセックスが上手い、良い変態だと思っていた。
それは、これまで関係を持った女性の反応や言動から。そして自身の性への関心の持ち方を俯瞰して見てのことだった。
真偽はわからないが、もしかするとその女性たちは、僕とのセックスで大なり小なり満たされていたのかもしれない。
でもそんなことは最早どうでもいい。
彼女とのセックスで気付かされた。
僕はセックスで女性に主導権を握られることに拒絶反応を示した。
彼女の圧倒的なテクニックと演出を前に、自分が何もうまくやれていないなどと言う、下らない自己否定を始めた。
それはつまり、僕が女性とセックスを利用して、自分の社会的な男としての価値を測っていたという証明だ。
女をセックスで支配して、よがらせ、喘がせることで、インチキな自己肯定に酔っていた。
それは、セックスが楽しくなくなり始め、色んな本を読んだりした僕が朧げにも辿り着いた、くだらないセックスの原因そのもだった。
自分はきっとそうではないし、そうならないようにと思っていた矢先に、彼女とのセックスで自分がまさにそうだと突き付けられた。
事後の僕のその姿は彼女の目に、セックスを終えたら女に急激に冷たくなる冷酷賢者男として映っていたようだ。
少し時間を空けて、僕の頭と心の中を彼女に伝えた。
でも、自分はセックスで悦ばせようとしただけなのに、不可解な落ち込みを見せた僕を、やはり彼女は不思議がっていた。
初めて体を重ねた日にそんな出来事があった僕たちは、なんとなくそれまでのようには会わなくなった。
それから数週間経ったある日、僕はSNSで彼女に彼氏ができていた事を知った。
正体を知らない人からすれば、絶対に持ち主が誰なのかわからないそのアカウントを、友人と飲みにきていた安い居酒屋で僕は何度も見返した。
二年前に最後の彼女と別れて以来、初めて好きになった人との関係は、数回のデートと一回のセックスで終わった。
その事実よりも何よりも、彼女との関係で気付かされた自身が育んでいた性愛の価値観に絶望した僕は、彼女をもう一度振り向かせようなど到底思えず、連絡も何もせずその事実を受け入れた。
それからわずか1ヶ月後、突然連絡をよこした彼女は、僕に会いたいと言った。
彼女が待っていたのは、あの日と同じラブホテルだった。
僕と会わなくなってからの事を彼女は話した。
社会的に見ても、彼女に相応しかった彼は、とても素敵な人だったらしい。
「でも彼といても、話していても、私に見える世界は何も変わらなかった。話していて心地よくて、自分一人では見られない世界を見せてくれるのは君なの」と彼女は言った。
そしてこう続けた「私にも好きな時間や空間はある。そういうものも君と過ごしたいの。でも君との関係性や君の価値観を考えると、全て私が支払うべきではないと思う。だから君にとって本当に無理のない範囲でいいから、二人で一緒にその時間に対価を支払って過ごせないかな?」
彼女は他の男性と過ごし、自分にとって僕が何なのかを自覚し、そして二人で色んなものを、互いに共有したいものをできるよう、考えてくれたんだと思う。
その夜の僕には、不要な焦りも、下らない拒絶もなかった。
僕にできたことは拙かったかもしれないけれど、自分が彼女に何をもたらし得るのか少しわかった僕は、彼女の瞳を見つめながら、精一杯奥へと、彼女と繋がろうとした。
それから僕たちは何度も二人で過ごし、互いのことをたくさん話した。
不気味とさえ感じる隙のない美しさを前に、彼女のこれまでを僕は少しずつ、きっとそれらは、ほんの少しだろうが、知った。
幼少期のことや、学生時代、その後も。
その年頃の僕では、想像すらしなかった経験。
温和で平凡な環境で育った自分に、なぜかコンプレックスを感じることさえあった。
人間の性と自我を壊しかねない、彼女が受けた許されざる悲劇。
彼女の歪とも言えるほど、異常に大きく膨れた美しいその胸は、その体が、心が、受けた暴力にあげた悲鳴のように、僕の目には映った。
そして、初めて彼女の家を訪れた日のこと。
美しくデザインされ、1人で暮らすにはあまりに広いその部屋の隅には、平置きの本が山積みになっていた。
僕が「こんなに本読むんだ」と尋ねると、「いっぱい買っちゃうの、ほとんど読めずにいるけど」と彼女は言った。
本が大好きな僕は、端から全て背表紙に目を通した。それらはどれも、人間の精神や愛をテーマにしたものばかりだった。
その時、一体彼女が何を求めて、何を感じて、僕を求めてくれるのかがわかった気がした。
そして、愛とはなにか、知性とはなにかを求めて、光を持たないように見えるその瞳で文字を追う彼女の姿を思い浮かべ、僕は無性に愛おしく感じた。
気付けば東京では、もう蝉が鳴いていた。
仕事で八月から三ヶ月間、僕が日本を離れる事を知った彼女は、君が日本を発つまでに一緒に旅行に行きたいと言った。
彼女があげた候補の中から、僕は大好きな作家、「嶽本野ばら」の小説に出てくる喫茶店がある鎌倉を選んだ。
彼の作品の中でも僕が最も好きな「シシリエンヌ」のヒロインに彼女を重ね、何度もその小説の話をしていた僕は、彼女と嶽本野ばらの世界の一部を共に肌身で味わえることがとても嬉しかった。
彼女自身も、その世界観を気に入ってくれたようだった。
互いに一冊ずつ、僕はその喫茶店が舞台の短編小説が載る「カフェー小品集」を、彼女は僕が紹介した嶽本野ばら作品の中で最も興味を示していた「鱗姫」を持ってきていた。
その喫茶店には、客席にキャンパスノートが置いてあった。
そこには、これまで訪れた人たちが、その喫茶店に寄せる思いの様々を書き記していた。
僕もそのノートに、最も一緒に訪れたかった人と、今ここにいることを書き記した。
そして僕たちは、もう人の少ない時間に海を訪れた。
水色のワンピースの裾を少したくし上げて、くるぶしの辺りまでに静かな波を受けながら、夕暮れ時の海を見つめる彼女。
僕は、瞳で彼女を見つめていたはずなのに、視覚だけではなく、五感の全てで、僕という存在が感じ取れる全てで、貴方を見つめているような感覚に囚われた。
貴方を纏う汐の音、その海も砂浜も、その時も空間も、全てが、貴方のために存在しているかのようだった。
でも僕たちは、その旅行を機に会わなくなった。
僕はその後すぐに日本を離れたけれど、別にそれは理由ではなかった。
旅行という、24時間、それ以上を通して、異なる人間の楽しみたいものが交錯する出来事を通して僕は「彼氏、彼女」という関係を強く意識し始めていた。
そこで僕は、自分には到底支払えないホテルや食事を彼女の力で共有した。
それを目の当たりにしてから、「この旅行を素敵にしなければ、その代わり僕にできることは」なんて意識し始めて、勝手に一人でぎこちなくなっていった。
そのぎこちなさは、彼女に強くストレスを与えてしまった。
きっと彼女が僕に対して全く責める気もなければ、求める気すらなかったであろう部分で勝手に劣等感を感じて、彼女が僕といるからこそ感じられるものを蔑ろにしていた。
関係に名前をつけようとして、その名前の正解に近づこうとして、二人の間で何よりも大切だったはずものを疎かにしてしまった。
僕はまた、自分で最もくだらないと思っていたものに自分で振り回されて、彼女との間に溝を作った。
そのまま僕は日本を離れた。
日本にいない間、生活がかなり変わった僕は、持っていった10冊ほどの本を何度も読みながら彼女の事を考えた。
その本の中身は、性愛をテーマにしたものばかりだった。
あの旅行から少し経って、彼女は僕に連絡をよこした。
君が日本に帰ってきたらまた会いたいと言ってくれた。
僕は帰国してから、それまでにも増して本をたくさん読んだ。
それもまた、性や愛をテーマにしたものが多かった。
その度に彼女のことを考えた。
たくさん読んだ本の中で、僕はどうしようもなく彼女に贈りたいものに出会った。
偶然近かったバレンタインデーに、その本に添えて手紙を書いて彼女に贈った。
その時強く自覚した。
僕には、他の誰を思い浮かべるでもなく、彼女を想い浮かべた時にだけ、溢れ出てくる言葉がある。
彼女が僕との世界に求める何かを、その世界を構築するカケラを掴もうと、もっとたくさんの事を知りたいと思う。
僕が感じ取る彼女を、僕がする彼女への表現を、もっと深く広げたくて、僕は一つでも多くの言葉に触れようとする。
そうして豊かになる僕の知性が、彼女を、彼女以外の全てをも、色鮮やかに僕の心に映す。
貴方が、僕の世界を変えてゆく。
これが愛なのかな。と、思ってみたりする。
あの旅行以来僕たちが会ったのは七ヶ月ぶりのことだった。
久しく会う彼女は、相も変わらず、以前にも増して美しかった。けれど僕の目にはもう、不気味にも歪にも映らなかった。
彼女がご馳走してくれた、二人分で僕の家賃ほどしたディナーを、何のぎこちなさもなく彼女と楽しんだ。
その後は、仲の良い先輩がオープンした恵比寿のバーでお酒を飲んだ。
そういえば一年前、初めて彼女と二人で会った日も恵比寿だった。
同じ時期に同じ街で、同じ人といるけれど、全て全然違って見えた。
ただただ彼女のことを「愛おしい」と感じる瞬間に溢れた、四年に一度しか訪れない夜だった。
貴方が僕の人生に存在することに、感謝を込めて。
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