【誰かの靴を履いてみること(1)】他者の靴を履き続けることとネガティブ・ケイパビリティについて
こんばんは、Keigo Nozakiです。
最近高知も寒くなってきました。今私は作業机でこのnoteを書いているのですが、とにかく寒い。だいたい作業机で座っていると足先から寒くなって、体全体が寒くなります。インコを飼い始めたのでエアコンの暖房をつける日もあるのですが、最近はベッドの布団を作業机のもとに持ってきて布団に包まって読書したり、noteを書いたりしています。
布団の中は最高ですね。ずっと居れます。なので今度の【場所と人のつながり】は、居心地のいい布団について書こうと思います(※冗談です)。
さて、そんな冗談で私の被ってる布団もこの記事を読んでくれているあなたの笑いの沸点も温まってきたところで今回は新しく連載にしようと思っている【誰かの靴を履いてみること】の第一回目を書いてみたいと思います(ここからは「です・ます」調で書かない)。
そもそも本記事を読んでいるみなさんは、この言葉を知っているだろうか。
この言葉は、ブレイディみかこさんというイギリスに住んでいるライターの方が書かれたノンフィクション本『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社,2019)の第5章の表題にもなっている言葉である。以前新潮社の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の特別サイトで第5章が全文公開されていたが、ついさっき同サイトを久しぶりに訪れてみたらその文章は非公開になっているようだった(2024年12月14日確認)。残念。
さて、私がこの本(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社,2019))を知ったのは、2019年にゲーム『メタルギアソリッド』の生みの親である小島秀夫さん(ファンの間では小島監督と呼ばれている)がTwitter(現:X)でツイート(現:ポスト)していたことがきっかけだった。当該ツイートは以下のURLで確認できる。
当時、2019年末〜2020年の3月頃までをざっと振り返ると、小島監督の独立後初の最新作『DEATH STRANDING(デス・ストランディング)』が11月に発表され(実際にゲームをプレイし)、12月に当該ツイートでこの本(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社,2019))の存在を知り、2020年の年明け早々には新型コロナウィルスの発生、その後世界各国が自国の感染者数を減らすためにロックダウンをした。そういった社会情勢からも、この本(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社,2019))を読むことは当時の私にとって今振り返ると必然だったように思う。
余談だが、私はこの2019年度後期の文化人類学の期末レポートで、多文化共生について論じたがこの本(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社,2019))を引用してレポートを完成させており、文化人類学への興味関心はここから始まったと考えている。
さて、この本(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社,2019))との馴れ初め(?)話はこれぐらいにしよう。
ここからは「誰かの靴を履いてみること」について、私が理解しているところを整理して、なぜそうした態度を取るのか、答えのない問いを問い続ける「ネガティブ・ケイパビリティ」の重要性を交えて記述してみたい。
「誰かの靴を履いてみること」の核心的な部分は、上記のツイートで引用されているように、「自分とは違う立場の人々や、自分と違う意見を持つ人々の気持ちを想像してみること」(ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』新潮社,2019,単行本p.74引用)である。
(学術的にこのまま上記のツイートを引用すると孫引きになってしまうので、以後このツイートから引用するのではなく、原典である単行本(文庫のページ番号ではない)から引用する)
大前提として、人はそれぞれに信じるものを持ち、ときに人々は国家や宗教、言語、貨幣を信じることによって集団を形成する。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で虚構(=「共同主観的現実」もしくは「想像上の秩序」)と呼ぶものがそれである。こうした虚構を信じることによって、人類は今日に至るまで繁栄したとされる。しかし集団間で異なる価値観を持っているため、虚構が原因で争いが起こってしまうことも長い歴史のなかであった。そうした集団内で形成された認識は、私たち個人のアイデンティティになっており、生きている場所が変われば、それぞれの人が考えている当たり前もそれぞれの社会によって異なる。
私たちの生きているこの多様性の時代において、そうした立場の違う人や違う意見を持った人々をただ闇雲に対極的(二極的、二元論的、二者択一的)にみて、どちらかに同情(シンパシー=Sympathy)するのではなく、むしろ「自分とは異なる人の立場だったらどうだろうか」と想像する”能力”(エンパシー=Empathy)が、大切なのではないだろうかと同書は訴えている。
たしかに政治などにおいては右と左に分けられていけたり、ジェンダーでは男と女に分けられていたり、仕事では資本家と労働者に分けられていたり、勝者と敗者に分けられていたりする場合が多い。そうした二元論は自分と対立する人が誰なのか、言い換えると敵は誰なのか、がわかりやすい。
その一方で、立場を分けて考えてしまうと自分の立ち位置に近い方向の意見に同情(=シンパシー)してしまい、自分とは違う意見の人たちの話をただただ間違っていると蔑ろにしてしまい、両者の間に分断が発生してしまう。
だからこそ、分断を避けるためのエンパシーが必要だ。自分と違う立場の人々の声を聞く必要がある。
一方の意見に私たちが支配されてしまうときに、私たちに欠けている思考は「もしかしたら私もその立場だったかもしれない」という偶然性に対する想像力だ。
哲学者のマイケル・サンデルがコロナ禍以降のTEDtalkやYoutube動画のいくつかのインタビューなどで指摘するように、コロナ禍で明らかになったことは、スーパーでレジを打つレジ係や、宅配便の配達員、ゴミを回収する人、病気の人のケアをする看護師(医療従事者)、教員などのエッセンシャルワーカーと呼ばれる立場にある人たちによって、私たちの生活は支えられているが、ホワイトカラーの仕事よりも彼らの賃金は低く見積もられ、社会的に尊敬されているわけではなく、またホワイトカラーの仕事と比べてウィルスに感染するリスクにたくさん晒されているということだ。
エリート層の多くが、エッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちに対して、その職業を選んだのは自分自身だから、”自己責任”でしかないと言って、危険をエッセンシャルワーカーに丸投げし、エッセンシャルワーカーを切り捨てるような考え方をしている(新自由主義的議論の中心には常に自己責任論的思考で考える節がある)。
私たちの多くがこうした新自由主義的な自己責任論で人を苦しめ、自分を苦しめている。それらの原因は本人自身ではなく、本人を取り巻く環境やタイミング(運、偶然性)が関係する。
私自身も他者の話を聞いていて、それは「自己責任じゃ…」と言いたくなる時がある。しかし会話の中で「自己責任だよね」と言った途端にその人を突き放してしまった気分に後々なってしまうし、対話がそこで終わってしまう(これは「あなたの感想ですよね」と言っているのと変わらない(参考:村上靖彦『客観性の落とし穴』ちくまプリマー新書2023))。
むしろその対話では、とにかく相手の話を聞き、早急に答えを出さないほうがいいように思う(そのうえで私がその人の立場だったら…と想像してみよう!!)。
そうした点から私は、ネガティブ・ケイパビリティについてこのNoteの最後に述べて置かなければならない。
この対話における「早急に答えを出さない」という私の態度は、ある視点からみると、問題を先送りにしているように見えるだろう。
しかしながら世の中にある問題の多くは、すぐに解決できる問題なのだろうか。先に述べたようなエッセンシャルワーカーの問題だって、「その仕事を選んだのはあなた自身なのだから自己責任だ」と直ちに答えを出すことは、簡単である。だがそれは、上記で確認したように人を突き放し、あまりにも不寛容な態度であるようにみえる。そうした不寛容さのある社会は果たして居心地の良い社会と言えるのだろうか。
こうした考えのもと、我々は「答えを待つこと」をこれから大切にしなければならないのではないかと考える。
ウォルト・ホイットマン(1819‐1892)はアメリカ南北戦争のさなか、戦場に看護師として駆けつけて、負傷兵の世話をしていた。負傷兵の中にはもう助からない人々がいたが、自分自身には限られたことしかできないとホイットマンは思いながらも、「彼らが望むなら、そばにずっといた」という(白岩英樹『アメリカの思想と文学』白水社,2023)。
こうしたホイットマンの姿勢は、一方的な答えを押し付けるのではなく、「とにかく何も話さなくてもそばにいること」を大切にしている。
そうした答えがわからなくても、考え方が違っていても誰かの靴を履きながら、(答えを一方的に押し付けない方法で)誰かと寄り添うことを私はこのシリーズを通して考えてみたいと思います。
※サムネイル画像は本人撮影
Keigo Nozaki.