テキサスの中絶禁止法は女性の人権への侵害なのか
(みだらな言葉が出てきますので、子どもには見せないでください。
大人の皆さまは自己判断でお願いします)
去る9月1日、米国テキサス州で、妊娠6週目以降の中絶を禁止する州法が施行された。
人工妊娠中絶手術が受けられるのは、日本では妊娠22週未満。
6週目で自分が妊娠していると気付く女性は稀だ。
つまり、実質はほとんど全ての中絶を禁止することになる。
しかも、一人の被告を何人もが民事で訴えることができ、有罪となれば1万ドルと訴訟費用をそれぞれの原告に払わなければならないという。
1万人から訴えられて負けたら1億ドルを払うというのだからとんでもないことだが、バイデン氏をはじめ、女性の権利の侵害だと騒がれている点に少々疑問を感じる。
保守派の主張はキリストの教えに従って妊娠中絶を禁止すべきということではないのか。であれば、キリスト教に沿って考えなければ、違う土俵で相撲を取るようなものだ。
産めよ増えよ地に満ちよ
中絶に反対する保守派の人々が信仰しているのはキリスト教だ。
聖書の創世記には「産めよ増えよ地に満ちよ」とある。
仏教といってもいろんな宗派があるように、キリスト教といってもいろいろな考え方があるわけだが、敬虔なカトリックであれば、中絶は本来禁止である。孫引きで恐縮だが、以下の文をご覧いただきたい。
胎児を「殺してはならない」というカトリックの基本原則は、いかなる理
由があったとしても例外として認められていない。母親の健康に害が及んでも、娘が父の子を産んでも、重度の障害を持つ子どもが生まれその後の母や子にどのような苦しみが訪れようとも、生命は神の賜物なのである(『カトリック思想における中絶に対する意識とそれが与える影響』p.13)
この文章だけを見れば、女性が著しく不利益を被っているようにみえるが、男性だって、自慰行為も禁止だし、夢精すら禁止されている。
つまり、生殖を目的としないなら全てダメなのだ。(だから生殖しえない同性愛が罪だという理論につながる)
何を言いたいかというと、中絶という女性側だけを取り上げるから女性への人権侵害だと誤解を招くので、自慰行為を行った男性や夢精をした男性も、民事で訴えるようにすればよいのだ。不倫だの、一夜限りだのは言うまでもない。
同じように、何人でも訴えることができ、1万ドルを請求できるようにすれば、誰も中絶禁止法によって女性の権利だけが侵害されているとは言うまい。
テキサス州に住む非クリスチャンには大変かもしれないが、敬虔なクリスチャンであれば普段から実行していることであろうから、大したことではない。
汝殺すことなかれ
胎児とはいえ、立派な人間である。中絶は単なる殺人だ。
女性は十月十日苦しみ自由を奪われるかもしれないが、それよりも人一人の命の重さのほうが大事に決まっているではないか。
そのような考え方もあろう。
それを日本では22週と捉え、テキサスでは6週と決めた。それは神ならぬ人間の決めたことなので、自分が決めたことに責任を持てばよい話だ。
中絶が殺人であるならば、妊婦にストレスを与え、流産を招くような環境に置いたならば、その人間も殺人者として扱われることになるはずだ。あまつさえ、直接に暴言暴力をくわえるならば、間違いなく殺人者だ。
もし、バスが急停止をし、その衝撃により流産したならば、バスの運転手も殺人罪に問われることになる。もちろんバスへの乗車を拒否され、何キロも歩かなければならなくなったがために流産につながった場合も同様だ。
中絶を訴えて1万ドルを得ることができるなら、これらも全てその対象に含めなければならない。
6週目といえば、少しの衝撃でも流産しかねない。そもそも本人も周囲も妊娠に気づいていない段階のことであるから、女性と見れば妊婦と思って大切にしたほうがよさそうだ。聖書に書かれている最も高齢出産の例はアブラハムの妻サラだ。彼女は91歳で子どもを産んでいるから、そのぐらいの年齢の女性までは大切に扱ってもらえるはずだ。
テキサスは世界一女性に優しい場所になる。
汝姦淫することなかれ
みだらな思いで他人の妻を見る(マタイによる福音書5章)だけでも姦淫なのだとイエスは説いたわけだが、先に述べたように、生殖を目的としない性交は、キリスト教的には姦淫である。
逆の言い方をすれば、着床した女性側の意志は不明でも、精子の提供者は生殖を目的として性交したはずだ。
望まぬ妊娠に十月十日は我慢しなければならないのは大変だが、その後の養育は男性が喜んで引き受けるはずだ。
そもそも、男性はそれを目的として性交したのだから。
女性が育てたいという気持ちを持っているときも、産めよ増えよ地に満ちよという神の教えに従う男性ならば、喜んで養育費を払うであろうし、もし払わない男性がいたとしたならば、「民事で訴えて1万ドル」をここにも適用すればよい。
そのとき合意だったのかどうかを検証する必要はなさそうだ。
女性が望まないと言えば、それ以上の証拠の何が必要であろうか。
※それがレイプであったとしても、生殖を目的としない性交をしたなら罪なので、女性もちゃんと懺悔はしておいたほうがいいでしょうね。
新約聖書(マタイによる福音書)の冒頭には、アダムとエバからイエス・キリストにつながる系図が延々と書かれている。
血統を大事にするキリスト教徒がDNA検査を拒否することなどあるまいから、胎児の父親を捜すことに苦労することはないだろう。
クリスチャンでもない私が言うのもなんだが、信仰のために、ぜひテキサス州ではこれらをまっとうしてもらいたい。
世にも稀な、中絶が不要な国を作り、女性の権利の侵害などという見当はずれな批判をはねのけてほしいものである。
世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。