3.11に思うこと
また、この日が来た。
東日本大震災は、2011年3月11日14時46分頃に発生した日本国内観測史上最大規模の地震だ。
原発事故は日本産の食品に向けられた海外の風評被害も引き起こしたが、避難者が避難先で出身地を言えないという同じ日本国民からの偏見もあった。
今、その当時の人たちは平穏な暮らしを取り戻しているだろうか。
私は、この日になると、以前テレビで見たビッグデータを思い出す。
地震が起きた後、遠くから車が海に、家族のもとへと向かって集まっていくデータだ。交通量が増えるにつれ、それを示す線が太く太くなっていく。しかしその線は再度海から外へ向かって伸びることはない。
これが何を意味するか。
とても悲しいことだと思う。
残された人にとっては、とんでもなく悲しいことだろう。
その時を共有した多くの日本人にとっても悲しいことだ。
この悲しみから目を逸らしてはいけないと思う。
人は耐えられないものに直面すると、別の物にすり替えてしまう。
家族を救おうと命を賭した素晴らしい人という美談。
悲惨な状況を防げなかった政府への怒り。
生き延びた自分への恥。
あれは特殊な事例であって、もうあんなことは起こらないから大丈夫という否認。
そして、忘却。
そうではなく、悲しみを悲しみのまま抱え続けなければいけないのだと思う。それが無かった頃に戻ろうとするのではなく、抱えたまま前を向いて歩かなければ。
ニュースで、仙台にオープンした温泉施設を見た。
先進的な地中熱回収システムを備え、震災遺構などをめぐる周辺観光プランの一部にもなっている。
人は回復力(レジリエンス)を持っている。
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