散文『本を読む少女』
たった一目で、奪われた。
活字が並んだページに向ける眼差し、重厚な表紙に添えられた白い手、背中に流れる長い髪、そのどれもがこの上なく美しく——最早「美しい」なんていう言葉が野暮ったく感じられるぐらいに——、僕は目を、そして心を、完全に彼女に奪われたのだった。
これほどまでに美しい人がこの世にいるのかと感銘を受けたと同時に、長年ここを訪れておきながらなぜ今まで出会えなかったのだろうと口惜しささえ覚えた。そして心臓が大きく脈打って首の辺りがかっと熱くなるのを知覚し、ごく自然と感じた。
ああ、これは恋だ。
僕の脳は自分でも驚くほどすんなりと、それを理解した。今まで「恋に落ちる」という言葉が腑に落ちないでいたのがまるで嘘のように。恋というものは本当に、突然落ちてくる人間を待ち構える縦穴かのように潜んでいるらしい。
そうしてあっさりと人生初の恋に落ちた僕はその日一日、本来の目的をすっかり忘れて彼女に見入っていた。聡明な横顔に見惚れ、ふと我に返ったのは閉館十分前のチャイムによってのことだった。遂に目的を思い出すこともなく、後ろ髪を引かれるようにして屋外に出た時には、既に脳内に自宅からの交通費を思い浮かべていた。言うまでもないだろう。盲目な恋に落ちた僕は、一秒でも長くその姿を目に入れたいがために、彼女の元へ通おうと決めたのだ。
翌日、そういう訳で、早速僕は入館券を片手に電車に揺られた。各駅停車、九駅で約二十五分。今までその時間は携帯電話を見たり本を読んだりすることに使っていたのだが、ふと彼女の姿を思い浮かべた瞬間に何も手につかなくなった。凛とした瞳で脇目も振らずに活字を追う一人の少女は、ただ存在するだけで僕の調子を狂わせるらしかった。想像だけで心臓は高鳴って列車の振動と同期しそうな程だというのだから、館内に入り実体を捉えた暁にはもう、口から飛び出したっておかしくはなく。僕はそんな惨劇を公衆の面前で披露したくはなかったので、口を引き結んで息を詰めなければならなかった。
心臓を飲み下して息を吐く頃、ようやく僕はまともに彼女を見た。彼女は変わらず本を読んでいた。緑色の表紙に金文字が箔押しされた厚い本にまっすぐと向き合っていた。左手の人差し指を横縁に引っかけ、小指の先を机板に触れさせるのは彼女の癖だろうか。そういった本人からすれば無意識かもしれないような仕草さえ、僕の目にはとても魅力的に映って。
再び心臓が暴れ出し、熱い血液が体内を循環しているのがはっきりと分かった。そんな状態ではそれ以上見つめていられるはずもなく、僕は一度逃げ出した。意味もなく館内を何周も回りながら時々戻って姿を視界に収め、享受する美貌と湧き上がる恋情に身体が叫び声を上げる度にまた逃げ出す。完全に感情に振り回されている自覚はあったが、仕方ないだろう、だって初恋なのだから。
そんな側から見れば明らかに不審な行動を繰り返している間に、閉館十分前のチャイムが鳴った。
彼女に出会って二週間が経った。僕はようやく自分の恋情に対する耐性がついてきて、落ち着いて彼女を見ることができるようになっていた。少し離れた位置にある椅子に座って改めて目を向け、その度新たに気付く美しさに胸を締め付けられながらも、どうにか平静を保てるようになってきたのだ。
彼女が居る企画スペースは館内でも比較的隅のほうにある。照明はきちんと届いているものの、やはり光量が多いとは言えない。そのためか人気も少なく静閑としていて、しかしだからこそ彼女という存在を一層際立てていた。
空間の仄暗さは陶器のように滑らかな肌に柔らかい影を落とし、髪の艶を落ち着かせ、より深い色味を与えている。それだけでなく、長いまつ毛の奥に潜む夜空を湛えたような瞳や桜の花弁そのものだと感じるような唇の鮮やかさは、かえって引き立たせる。
瞳の輝きは取り立てて惹かれるものだった。磨きたてのガラス、切り出したての氷、それらに劣らないぐらいに澄んでいて、そして知性と熱さを秘めているのだ。グーテンベルクに始まる技術の賜物が与える教養の数々が双眼から視神経を通って脳髄に取り込まれ、ニューロンを駆け巡り、大量の糧として貯蔵されていく、そんなところまで見えるはずもないのに見透かせてしまいそうだと錯覚させるほどの熱を。
そして、それら全てを彼女自身が纏う雰囲気が完璧にまとめ上げ、ある種の神々しさすらを覚えさせるのだ。清廉、端麗、崇高、どんな言葉を使ったって表現しきれない。いや、唯一無二のそれを言葉にしてくすませること自体、恐ろしいことなのかもしれない。
心地よく恋慕のリズムを刻んでいた心臓が畏怖めいた何かによって冷えた瞬間、閉館十分前のチャイムが鳴った。
一ヶ月が経った。常連と言っても過言ではないような頻度——具体的には週に二、三回ほどだろうか——で通い詰めていた僕は、受付の男性とすっかり顔見知りになっていた。入り口を通る時には必ず会釈をし、時には言葉を交わすぐらいには。
一方、彼女とは何の進展もなかった。あるはずもないのは分かっているのだが、それでもやはり、「無い」というのは虚しいことだった。
今まで僕は、ただ彼女をひっそりと見ていられればそれで満足していた。なぜならこれは僕の勝手な一目惚れであって、彼女が何かアクションを起こす必要性はなかったからだ。言葉も動作も、言ってしまえば相互認識も必要としない、一方通行で自己完結の密やかな恋。その現状に不満はなかったし、変えようとも思っていなかった。
しかし、恋は人を相当狂わせるらしい。あろうことか、僕はいつの間にか「その先」を望むようになっていたのだ。細い指が紙を捲る瞬間を見たい、閉じられた唇からこぼれ落ちる声を聞きたい、活字だけを追い続ける瞳に僕を映してほしい。そんなことは起こりようがなく、叶わない願望だと理解してはいたが、一度芽生えてしまった欲がそう簡単に消えるはずもなかった。俗に言う「恋をすれば欲が出る」がついに発動したのだ。
だからといって、彼女に近づこう、話しかけようとは思わなかった。自分なんかが直接的に関わってはそれこそくすんでしまう気がしていたし、そもそも話しかけたところで返事が返ってこないのが世の理だ。それに、どれだけこちらが渇望していようと絶対にその瞳が僕を映すことはないという事実は、どうしようもなく僕をぞくぞくとさせていた。そのままで良い、そのままが良い。そうあるべきで、そうすることしかできない。それが一番美しくて、一番惹かれるのだ。
まあそれはそれとして、彼女の「動」を求めてしまっているのも事実なわけで。背反する二つの望みをどうにか両立させようとして、——これは本当に愚かな方法なのだが——僕は脳内で彼女を動かすことにした。自分でもおかしなことをしているとは分かっていたけれど、そうする他は思いつかなかったのだ。それほど僕の恋煩いは重度らしかった。
頭の中で、彼女の指がページを一枚捲る。桜色の唇が薄く開いて軽く息を吸い、鈴が鳴るような可憐な声で活字を読み上げる。しばらくそれが続いた後、ふとその声が止まり、さらりと背中から髪がこぼれ落ちる。彼女が頭を動かしてこちらを向いたのだ。二粒の黒真珠に、どぎまぎする僕の姿が映る。彼女は完璧な角度と仕草で微笑みかけ、再び、今度は僕に向けて言葉を発しようと口を開く。その一音目が空気を震わせる直前、閉館十分前のチャイムが鳴った。
さらに一ヶ月ほど経っただろうか。いつものように電車に乗り、彼女を想っては意味もなく緊張して、そうして彼女の元へ向かう。今日はどのような顔を見せてくれるのだろう、どんな美しさを見つけられるだろう。そんな考えで胸を高鳴らせながら、受付を抜けてすぐを右、企画スペースの一番端。足が止まる。
そこに彼女は居なかった。
彼女の代わりに、二人の女性がそこに座っていた。
瞬間的な喪失感と戸惑いに世界が時を止める。さっと体の熱が引いて、先程とは違った意味で心臓が早鐘を打ちだす。詰まりそうな息をどうにか吐き出して咄嗟に受付に引き返し、今さっき顔を合わせたばかりの男性に訊ねた。
「すみません、彼女はっ」
勢いに驚いたようで少し間があった後、すみませんが彼女というのは、首を傾げられる。そうだ、僕が彼女のことを「彼女」と呼んでいるなんて、誰も知っている訳がなかった。
「あの、企画展の隅のほうの、本を読んでる……」
題が瞬時に出てこなくて辿々しくそこまで言うと、男性は思い当たったように頷いた。
「ああ、シェノバの『本を読む少女』ですか」
「そう、そうです、それです」
飛び付かんばかりに首肯する僕を見て、少し言い淀むように目線が下がる。
「大変申し訳ないのですが……」
眉を下げて、そして。
「……あの作品は、今回の企画展のために海外からお借りしていたものでして。展示期間の関係もあって、元の美術館にお返ししてしまったんです」
2023年夏部誌に寄稿したものです。