価値とジャッジと優越コンプレックス。
人の価値って、条件で変わるもの?
そうではない。
ずっと、自分は生きている価値がないと思ってきた。
だから、いい子であり、いい成績を取り、なんでも「できる」ようになるようにがんばってきた。
少しでも高い「付加価値」をたくさん持たなければ、と思っていた。
それが、「愛される条件」だと思っていた。
ベクトルをこんな方向に向けてしまうと、
それが自分の価値観になる。
自分自身にだけではなく、周りにも条件を求めるようになる。
すべての基準は、ジャッジ。
そこから生まれる劣等感。
わたしの中には、劣等コンプレックスと優越コンプレックスが混在していた。
ジャッジすることで、自分自身を苦しくしている。
そして、自分自身を生きることができない。
「できる」ことが人の価値?
「いいもの」を持っていることが人の価値?
「知ってる」ことが人の価値?
稼ぐ金銭的数値が人の価値?
もしも、ジャッジされてるな、と感じたら、
その人自身がジャッジの中で苦しんでいる。
きっと、目一杯、虚勢を張ってる。
わたし自身も、誰かをジャッジしてるな、と感じたら、
自分が崩れ落ちないように虚勢張ってるんだろうな。
そんなとき、自分自身に
「それ、誰が決めたん?」
って聞いてみる。
自然は、そのままで美しい。
そのままで、いいんだよね。
存在していることが、既にその人の価値だと思う。
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