星と人の間に ニューヨークで絵描きとして生きる (1)
ニューヨークで、絵描きとして活動してきている啓茶(ケイティ)、ことKeico Watanabeです。
私がアメリカに来てから、27年。
これは私がニューヨークに渡って、絵描きとして生きてきた日々の物語です。
ニューヨークで暮らすなんて考えもしなかった
「東京ですよ」
母からの電話は、いつもそう始まる。
私がニューヨークに来た頃は、電話をかけるとびっくりするような請求書がきていたが、10年ほど前から、ぐっと国際電話料金も安くなった。
母の電話の始まりは、いつも同じだが、
―いつまでニューヨークで暮らすつもりなの?
―仕事は何をしているの?
―危ないことになってないの? お酒を飲み過ぎていない?
―次はいつ帰ってくるの? 心配だわ。
だんだんそう言わなくなってきた。昔はそればかりいっていたのに。
私もまた母に
ー病院には行っている?
ーちゃんと身体も動かしている?
ー変なセールスマンを家にあげてない?
ー知らない人と電話で話してはだめよ、心配だわ。
だんだん言わなくなってきた。
一人暮らしでだんだんと歳をとってきている母を心配はしていても、お互い自分の事は、自分でなんとかしようということを暗黙の了解のようなものがある。
私が自分の現状をあいまいにしか言わない、言いたがらないということが解ってきたのだろう。
以前の母と娘とは違う、それぞれの土地でそれぞれの責任で暮らす女同士という関係はいつの頃からだろうか。
母は、庭の菊が今はきれいよとか、近所の出来事とか、今日は中庭に猫が昼寝していたわとか、当たり障りのないことを楽しそうにしゃべる。そんな話を聞いていると、心から日本が恋しくなってくる。
昔は、ニューヨークで暮らすなんて考えつきもしなかったことだ。
私は個人のデザインとイラストレーションの製作事務所を日々忙しく運営していた。
あるクライアントからの依頼で、その会社がアメリカ進出するにあたって、ニューヨークにデザインの打ち合せをしに来ないかという連絡があった。
「はい、大丈夫です」と答えた。
「では、航空券とホテルを取って、連絡しますね」
といわれて、とたんに緊張感で身体が熱くなり、足が震えた。
「え、私、英語なんて話せないですし、海外旅行はパックツアーみたいなものしか行ったことないですけど、どうしましょう」
そう正直に言い出せないままに、受話器を置いた。
空港からホテルまで行けるだろうか、チェックインの時は何て話せばいいのだろうか。
ニューヨークに10年ほど前に行ったことがある。
その時は友達と2人で旅行会社に申し込んだ。到着した空港でお迎えの旅行会社のプレートを持ったガイドさんを探し、観光バスで市内を見学して、夕飯も時間を指定して送り迎えをしてもらった。当時は女子だけで地下鉄に乗るのは危険だと言われていた。
美術館や博物館は素晴らしいが、街の汚さと怪しい人達に緊張しながら4日間を過ごしその後のサンフランシスコでの観光で少しホッとできたものだ。
ニューヨークはもう来なくてもいいな、とすら思っていた私だった。
バブルの東京で、イラストレーター
大学時代は美術大学に通っていた。
当時は、女の子であれば短大か大学に行って、花嫁修業をしてから結婚というのが良いとされていた。
お稽古事などキッチリやってお嫁に出したい、と願う両親の想いとは裏腹に、私は絵の予備校に毎晩通った末に1年間の浪人時代を過ごし、東京郊外にある美大に入学できたのだった。
学生時代は美大を卒業したら、「絵描き」になれるような気がしていたが、卒業が近づくにつれ美術の先生という職業の倍率の高いことや、社会人となるには好きな絵に没頭していただけではいけないのだと気づく中、「イラストレーター」という職業があると知った。
そして新卒でなんとか入った広告制作の会社には、当時はまだコンピューターどころかカラーコピー機すらなかったのだ。
私達の主な仕事は、トレスコープという畳半畳ほどの拡大機を使って、カラー写真などを自由な大きさにトレースして、それにカラーパステルで色をつけて、本番は写真になるポスターなどのプレゼン用のイメージ画像を仕上げることだ。
カタログ用の車の絵、食料品や機械の部品、人物イメージとして松田聖子や加山雄三など当時の広告モデルさん達の写真も届いた。
とはいえ、最初はいきなりそんなことができるわけでもなく、一ヶ月ほどは先輩の仕事の見学、それからは練習という期間になった。
写真部とイラスト部は残業手当などなく、かといって実質的な仕事がないからといって定時に退社するわけにもいかず、「終電ですから」と言い訳して帰宅するとか、先輩達が仕事を終わって「飲みに行くぞ!」という言葉で外に出ることができた。
実際に使用されるイラストの原画も描かせてもらえた時は、本当に嬉しかったものだ。入社3ヶ月に初めて任された私の仕事は、七夕の笹に短冊がいくつかぶら下がっている絵を描くことだった。その短冊にデザイナーが活字の文字をレイアウトして証券会社の新聞広告を仕上げた。
実際に自分が描いたイラストが印刷物になることに、心が躍った。そしてその広告が掲載された日経新聞が、入院先の父の病室にも届いた。
企業戦士であった父は半年前に余命宣告を受けて入院していたのだ。
その頃、父の腎臓癌はすでに肺まで転移しており、手術もできないということを知っているのは家族だけだった。
病院のベッドで、すっかり痩せた父は嬉しそうに新聞を手にして、
「そうか、こんな仕事もあるのだねえ」
とつぶやき、それが私と父との最後の会話になった。
堅い職業についていた父は、私が美大に行くことも、イラストレーターになることも、お嬢さま芸のひとつだと思っていたので、新聞に掲載された、そんな小さな広告のことを、心から嬉しそうに見てくれたのだった。
けれども、その広告会社での仕事は長くは続かなかった。
広告プロダクション会社からは、個性が強すぎる、平衡感覚がずれるから、という理由での1年で契約を切られたのだ。
―個性が強すぎる。
個性が強くてはいけないのか。初めて出た社会で、自分の絵や自分の個性や、今までの人生すべてを否定された気持ちになり、真っ白なキャンバスを見ながら、おのれの無力さを痛いほど感じた。
それまでも受験に失敗したり、公募展に落ちたり、そんな時の自分と向かい合っている時、自分に元気づけるように不思議な形が頭に浮かび、その形を「絵」にしたくなってくることがあった。
いや、そうでもいないと落込み過ぎて消えてしまいそうな気持ちになってくるからかもしれない。
その時も、不思議な形が浮かんできて、これを絵にしなくてはならない、という気持ちがわいてきた。
そこから自分の絵を必死になって売り込む日々が始まったのだった。
* * * * *
夕日が傾き、しばらくの間だけ
ビルの隙間から見える空
こわがらなくていいんだよ
立ち止まってもいいんだよ
肩の力をぬいてもいいんだよ
何も持たなくていいんだよ
たくさんの教本はいらないから
明日の予定なんかいらないから
時代遅れのチラシが風に舞う
夜に繰り出し人の影は、どこへ向かっているのだろう
忙しく飛ぶ鳥はどこへ帰っていくのだろう
あなたと歩く時は、どこまで続いていくのだろう
太陽が一粒のオレンジ色に光り沈むまで
だから、一緒に眺めよう
あなたのネックレスがオレンジ色に光り
あなたの顔に微笑みが戻る
* * * * *
次の章(2)へ