星と人の間に ニューヨークで絵描きとして生きる (3)
ニューヨークで、絵描きとして活動してきている啓茶(ケイティ)、ことKeico Watanabeです。
私がアメリカに来てから、27年。
これは私がニューヨークに渡って、絵描きとして生きてきた日々の物語です。
飛びこんだソーホーの画廊で個展をすることに
翌日、「地球の歩き方」と自分のポートフォリオを持って、ソーホーの画廊街に繰り出した。
「イクスキューズミー」
絵を見てほしい、個展はどうやったらできるのか聞いてみても、受付の人は、ディレクターはいないとか、持ち込みはないといった具合で、ほとんど会話が成立しなかった。
英語もできないのに、こんなのはムリだ。
思わず諦めかけたが、何件目かの画廊にたまたまオーナーが日本人の画廊があり、私の絵に興味を持ってくれたのだった。
オーナーは一枚ずつ丁寧に私の絵を見てくれてから、にっこりと微笑んで、
「個展してみましょうか」
と切りだしてくれた。
まさかニューヨークのソーホーで個展ができるなんて。
その言葉だけで嬉しくて、ああ、ニューヨークに来て良かった、と心から思った。
その日の夕食会で、女性社長が声をかけてくれた。
「ニューヨークの画廊はどうでしたか?」
「はい、街のすべてが刺激的で、画廊規約書ももらえた画廊もありました」
私が嬉しそうに話すと、
「あら、面白そうじゃないの。ぜひ個展開催しましょうよ。協力しますよ」
なんとスポンサーとして応援してくれるということになり、翌年の11月にはじめてのニューヨーク個展開催が決定となった。
恐ろしい怪物のように見えていたニューヨークという街が、今回は私の夢と大きなチャレンジの舞台としてキラキラと輝きはじめ、私は何も迷う事なくその世界へ飛び込んでみた。
語学学校のビザで渡米
「ちょっと3年ぐらいだけニューヨークに行ってみるわ」
そう母に伝えると、母はあぜんとして「そんな危ないことを」と心配したが、私はかまわず渡米の準備をし始めた。
そのくらい恐いものなしで、行きたい気持ちが止まらなかったのだ。
インターネットで調べた語学学校の学生ビザを取り、折畳み自転車と画材を持ってニューヨークに引っ越してきた。
学校が紹介してくれた寮はベッドと小さな机だけが置いてある小さな部屋だった。
隣のビルの壁に向かって窓はあるが、10センチメートルぐらいしか開かなくなっている。部屋にはトランクをやっと広げられるスペースだけの空間があった。
スポーツジムのような共同のバスルームが各階にあるが、人数の割にはシャワーが少なく、閑散としたキッチンにある大きな冷蔵庫には名前のはりつけた飲み物やビニール袋がグチャグチャに詰まっている。
学生であれば充分だろうが、学生だけやっているわけではない私としては、ここで暮らしていては基盤ができない。
とにかく自分の基地を作らなければ、何も始まらないと、アパートを借りるために日本語新聞に掲載してある不動産屋さんに電話した。
一番安いアパートできればダウンタウンが希望だといくつかの物件と伝えると、2つのアパートが候補になるということで、見に出かけた。
案内してくれたのは、スパニッシュ系の若い男の子で、どちらが良いか? と聞かれて23丁目の10階のスタジオを選んだ。
寮からの引っ越しはイエローキャブで充分だった。
お世話になった画廊のオーナーから簡単なマットと毛布を借りて、スタジオに移った。
窓の向こうには、マンハッタンの街並みが見える。
カーテンもない部屋で、その夜は目隠しのために窓に新聞を貼って眠った。
* * * * *
いつものように君にたのむよ
彼女の窓に灯りが灯るように
彼女の窓から歌が聞こえるように
シャンパンの泡を見つめる夜
だから、いつものように
ささやくブルースを弾いて欲しい
彼女の窓に笑い声が聞こえるように
彼女の窓に優しさが映るように
時計の針が、いたずらに進むよ
だから、いつものように、ゆっくりやって欲しい
絵筆を置いて、眠るまで
だから、いつものように
君にたのむよ
* * * * *
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