生きた証としての勉強≒受験
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勉強だけ出来ても〜という人は勉強の恐ろしさを知らない。どれだけ凄惨な世界があるか知らないからそのような無責任な発言が出来るんですよ...。指から出血し人生の1/3が徹夜の生活、体温調節が破綻することもある。そんな凄絶な生活にあって読書と他資格の対策は唯一の慰めとなってくれている。択一系主体のもう一つの法律系最難関試験は必ず教材が崩壊するまで勉強するようにしてる。❶戦略環境(誰にも依拠せず1人で闘える環境の構築)→❷戦略手段(演繹方式→帰納法的方式:量→質)→❸戦略目的(最終合格:敢えて闘いの最中にはインセンティブ向上の為に❸と❷を転倒させた)。❸>❷>❶の階層構造を脳内に形成した。もう一生娯楽も要らないし笑うこともないと思う。この四年四ヶ月休みの日は作らなかった。こちらは明確な目的があってやっている。遊ぶ時間を全て勉強に投入する方が合理的だと感じるからやってるんですよ。そして「生徒は勉強しないもの」という前提のもとに形成された学校制度に飽き飽きしている。毎日が生きるか死ぬかの勉強をやる決死的少数者としてそのような学校制度の埒外にいる。せめてそんな異端者が社会に紛れも無く存在した事だけは気づいて欲しいです。生きることと勉強することは完全に重なり合う。