映画「室井慎次 生き続ける者」で考える家族のあり方と生きる強さ
はじめに
先日、踊るシリーズの映画復活版ということで「室井慎次 敗れざる者」をみました。その時に感じてまとめた記事が、多くの人に読まれていいねをしていただき嬉しい限りです。ありがとうございます。
その記事の終わりに後編もみると書いた通り、「室井慎次 生き続ける者」も観に行きました。
後編は、前編以上に考えたり感じることはないだろうと、漠然と記事として書かないと思っていました。鑑賞途中までその気持ちは変わりませんでした。ですが、鑑賞後に全体を通して思い返すところがいくつかあり、映画本編のシーンをなぞりつつ、自分なりに整理してみることにしました。
今回もここから先はネタバレが含まれています。視聴済みあるいはネタバレ気にしない方はそのままお進みください。これから観られる方は、一旦止めていただき、鑑賞後に読んでもらえたらと思います。
また、劇中でのセリフを引用していますが、うろ覚えなところもあるためご了承ください。
27年後のさまざまな家族の問題
子どもが苦しみ傷つく世界
前編と本編映画は、TVドラマ放送時の最終話から27年ほど経っています(TVドラマ以降、スペシャルドラマや映画版が作られたので、最後の映画から数えると12年近くになります)。
その間、家族のさまざまな問題が注目されるようになりました。放送当時もこうした問題はあったでしょうが、今では以下のような言葉で表現され、社会問題として話題になっています。
児童虐待
毒親
シングルマザー
他にも家族の問題はありますが、あえてこの3つの言葉を挙げたのには理由があります。
室井慎次(柳葉敏郎さん)が里親として迎え入れた子どもたち(タカ・リク・杏)の3人がそれぞれこれらの問題を抱えていたためです。
タカ(齋藤潤さん)は、母親と苦しいながらも2人で幸せな生活を過ごしていて、生活のために母が夜の仕事につく彼の境遇とそれから室井に預けられる経緯が前編でとりあげられました。
後編ではリク(前山くうが・こうたさん)と杏(福本莉子さん)の過去に触れていて、リクは母親と離れ、怪我で定職につけず苛立つ父親から度々虐待を受けていました。
そして杏は、過去作の「踊る大捜査線 THE MOVIE」とその後の映画で、猟奇殺人犯として湾岸署を混乱に陥れた日向真奈美(小泉今日子さん)を母に持ち、無期懲役で服役中の彼女から、傷つくなら周りを傷つけろと杏を洗脳しようとします。
親が良いと思ったこと・子どもが良いと思ったこと
また、彼らと状況は違うものの、親子の考え方のずれも家族の問題として本編で挙げています。
病院で診察待ちの室井に、近隣で乳業を営んでいる石津夫妻が定期検診に訪れました。そこで石津から、なぜ1人静かに過ごそうとここに移ったはずなのに里親をやっているのかと問われ、室井は「仲間との約束を果たせず逃げ出したことへの償い」だと答えます。
そんな義理堅く不器用な室井の答えにほだされたのか、石津夫妻(小沢仁志さん・飯島直子さん)も自分たちの子どものことを語り出します。自分たちにも子どもがいて、小さい頃はよく仕事を手伝ってくれたけど、家業を継げと強いた結果嫌になり、家を出て音信不通になってしまったということでした。
その話をした後に、石津はこうつぶやきました。
「親にとって良いと思ったことが、子どもには良いと思わない」
親と子は血で繋がっていて、小さい子は親に寄り添ってくれるものでした。ですが、大きくなるにつれ親の考えに寄り添うのもいれば反発して離れる子もいます。
そうしたことを室井は聞いて悟ったのか、終盤に
「家族でいるには限りがある」とタカ・リク・杏に語りかけます。
これまでの踊るシリーズとの違い
奇しくも、警察という仕事から離れ、里親として平穏な生活を送るはずだった室井は、預かった子どもたちの背負う親の存在と、そこに潜む問題と向き合うことになります。
ましてや、室井は結婚せず家庭を持たなかった男です。それでも彼は、自分ができることを実行し、子どもたちにどう生きるかを伝えようとします。
こうしてみると、本編にはTVシリーズ・過去劇場版との違いを感じさせられます。
これまでは「警察組織を舞台に、事件が起きた原因や犯人を調査・逮捕していく」流れでした。
ですが、室井は警察を辞めて一般人となり、「家族・地域を舞台に、事件性のある出来事を調べ解決」していきます。
前者の警察ではすでに起きてしまったことを調べるのに対して、家庭・地域においてはその限りではありません。これから起こる予兆だったり事件になりかねない出来事も身の回りに起こりえます。
そうしてみると、この映画では室井は「現場側に限りなく近い」立場にいることがうかがえます。TVシリーズやそれまでの映画版では、管理官という役職上、室井は現場から離れた場所で指揮をすることがほとんどでした(一部で現場に直接出向くシーンもありましたが)。
しかし、民間人となったことで室井は、織田裕二さんが演じた青島たちよりも現場に近い存在になったのではとみることができそうです。
弱さをさらけ出すこと
前編と比べて気になったのは、室井が自身の過去や弱さを周囲に語るシーンがありました。石津夫妻とのやりとりにあった「仲間との約束を果たせず…」もそうですし、「仕事で人を疑ってきたから」という、これまでの人生を回顧する場面があり、それが周囲の人にも内省するきっかけになったのかもしれません。
なにしろ前編や後編の序盤では、「あいつは何を考えているんだ」と石津や長部(木場勝己さん)は室井の言動に愚痴をこぼしていました。
しかし、徐々に室井の人間的な一面をみて、彼らも自身のことを語ることになります。
ある日、室井の家に訪れた長部は、自分も小さいころに浅草からこの秋田の集落に越してきた、なめられないように必死だった過去を明かしました。
「人はどこにすんでもよそ者だ」それが彼の言葉でした。
こうしたことは仕事や実生活でも大切なことだと私は考えます。
いわゆる自己開示というところで、相手からの本音を引き出すには自身が思い隠していることや弱さもさらけ出す必要があるのだろうと思います。
不利な立場になるからそうした弱さは隠すものと暗黙的に捉えがちですが、決してそうとは限らず、一方で他者からの共感や関心を喚起すると考えます。そもそも弱さをさらけ出す恐怖もありますが、そうした側面がタカ・リク・杏や周囲の人間が室井に寄り添おうと感じさせたのかもしれません。
敗れざる者・生き続ける者に込められたもの
本作の前編・後編にあるこの副題について。これは何を指しているのだろうと感じました。
前編や映画の説明を見た人ならわかるように、室井は警察を退官しています。青島と交わした本庁と所轄の連携、風通しのある組織体制は成されず、「いや、敗れたのでは…」と率直に思いました。
ですが、その夢に向かって必死にもがきそれでも諦めた先にあるものが、この副題に通じているのではとも感じました。
私の好きな「左ききのエレン」というマンガで、「本気出して、それからあきらめろ」という名シーンがあります。
きっと室井は、このマンガにあるように本気を出して、その上で諦めたのではないでしょうか。
そしてそれでも最後に残った「正しくあろうとする精神」は、今なお破られず、そして生き続けていると、私はこの副題の意味として解釈しています。
この後編ではそうして成し得なかった夢に対して、意外な形で現役時代のライバルだった新城(筧利夫さん)と沖田(真矢ミキさん)が手を差し伸べることになります。
そして、タカ・リク・杏の3人もまた、生きる力を持つことを室井から託され引き継ごうとしているとラストシーンを見て思いました。
おわりに
この映画後編では、終盤につれて色々と物語のピースが上手いことハマっていき、都合のよい展開になっているような所感を一部で感じていました。Xでも肩すかしとか少しネガティブなコメントもみましたし、私もその気持ちは少し理解できます。
それでも、この映画を作る経緯が映画上映前からフジテレビの番組で放送され、脚本家の君塚良一さんが「柳葉さんを室井の役から解放したかった」と柳葉さんがコメントされていたのを思い出し、それと長らく携わってきたプロデューサーの亀山千広さん・監督の本広克行さんの差配もあってかあの展開になったのではと考えます。
個人的に印象的だったのは、本作で室井が自身の感情を何度か吐露するシーンでした。タカ・リク・杏を前に「お前たちのことを考えると楽しい」と本音をこぼし、また別の場面で久しぶりに酔った室井の口から「楽しい」という言葉がこぼれ出ていました。
おおよそ現役の警察時代にはなかった、室井の人間くさい側面が垣間みられました。
おそらく室井のこれまでの人生の岐路と積み重ねがあったからこそ、この一言が出たのだろうと思います。
作品の評価で賛否両論あるかと思いますが、室井慎次の物語に幕を下ろす機会に出会えたのは個人的に良かったなと思います。
まったく踊るとは関係のない余談ですが、この映画を観た後に本作に近い洋画を思い出しました。「オットーという男」です。
これも室井と同じく社交性が低く無愛想な男をトム・ハンクスが演じています。彼は妻を亡くしてから他者に心を開かなかったのですが、メキシコから移民してきたマリソル一家との触れ合いを機に、周囲のトラブルに向き合っていくお話です。
この作品ももし興味があったらみてみてはいかがでしょう。