朝靄の中で(IN THE MORNING DEW)#3

登場人物

小早川隆仁(こばやかわ りゅうじ)……K大学理学部二年
藤寺美月(ふじでら みつき)   ……K大学文学部一年
伊藤章博(いとう あきひろ)   ……立山で山荘を経営
  正美(まさみ)        ……章博の妻
高倉一行(たかくら かずゆき)  ……立山の登山客。章博の友人
  明子(あきこ)        ……一行の妻
  大河(たいが)        ……長男。中学一年
  美雪(みゆき)        ……長女。小学六年
高倉真澄(たかくら ますみ)   ……一行の父。登山家
山中正己(やまなか まさき)   ……登山客。高校教師
藤井輝昭(ふじい てるあき)   ……登山客。会社員
谷崎慎平(たにざき しんぺい)  ……富山県警刑事部
岡下大地(おかした だいち)   ……富山県警刑事部

 電車は草原、そして遂には入り組んだ山の際を縫うようにして北上していく。米原で切り離しを行い、出発した電車は北陸本線に入った。しかし夏というのもあって、関西からとうとう北陸に入ってきた、という実感は湧かなかった。勿論、美月にとって北陸本線は未踏の領域である。
 隆仁と美月が乗っている車両は弱冷車ではあったが、車窓から差し込む日差しと、ほどよく効いたクーラの影響で、非常に心地よい。電車の揺れもあって、隆仁は今にも寝てしまいそうだ。そもそも、どうして揺れていると人は心地よく感じるのだろう。赤ん坊などを癒やすときも、親は普通子供を揺する。この感覚回路は、経験則で無意識のうちに受容しているものの、改めて考えてみると非常に非自明である。おそらく、揺れていることそのものに心地よさを感じるのではなく、その揺れを通じて”包まれている”という実感を得ることにこそ、感覚の本質が詰まっているのだろう。他者に包まれているという感覚が、こんな自分にも残っていることに、隆仁は微笑んだ。
 美月は隣で、持ってきていたのであろう小説を読んでいる。タイトルは見えないが、きっと推理小説、所謂、ミステリィと言われる類だろう。彼女は文学部で、しかもとても文系的(具体的にどういったところが文系なのかは隆仁も分からないが)な思考をしているが、純文学の類いはあまり読まず、ずっと推理を楽しんでいる。本人曰く、連立方程式を解くみたいで楽しいのだという。それには隆仁も賛成で、推理という行為は、未知数を消去していく、正に方程式を解くことに近いと思う。美月にも理科系の科目の才能があると思うのだが、肝心の彼女は全く興味がないようだ。
 隆仁は窓の外をぼーっと眺めていた。先ほどから山がちな地形が連続しており、夏晴れだったためか、東の先の方に伊吹山も見えた。真夏日であり、山頂に雪は被っていない。伊吹山は滋賀県の最高峰で、標高は1377メートルを誇る。
 隆仁は社会科の科目など、暗記系の勉強は苦手だが、数字に関してはどんな些細なことでも覚えることができる。この能力は、理系的と思われがちだが、物事の具体的な部分だけを抽出し、インプットするという過程は、語弊を恐れず言うと、極めて文系的だと隆仁は考えている。だから、記憶した数字を披露するとき、美月が決まって理系脳だ、と避難する理由が隆仁には分からない。隆仁からすると、美月の方が余程、理系的な思考をしていると感じる。彼女は、まだ隣で自前の推理小説に没頭している。大きな目で見張っているが、長い睫毛は微動だにしない。
「あ、分かった!」突然美月が叫んだ。うとうとしていた隆仁はびっくりした。
「何が?」隆仁は慌ててコーヒーカップに手をかけ呑もうとしたが、もう残っていないことに気づいた。今日で3回目だ。
「この本のトリックですよ!」美月は興奮して言う。「ああ、これ、建物がシンメトリィになっているんだ。それに、広い何もない平面の中に立っているから、外の景色からじゃ方角が判断できない。あとは、出入り口の表示を入れ替えたら、簡単に場所をだませる! ああ、そういうことだったのね」
「今回はどういう事件が起こったの?」隆仁は眠たい顔で訊く。
「とある館でクリスマスパーティが行われたんですけど、当日の夜に死人が出たんです。損傷の様子から、明らかに殺人。真夜中だし、真冬の山奥で、外部の犯行とは考えにくい状況です」
(いきなり物騒だなあ……)隆仁はあくびをかみ殺した。
「それで、死体を発見した一同は警察を呼ぶんですけど、いざ警察が到着して、死体があった場所に案内すると、跡形もなく消えている……ってわけです」
「へえ……、それで、建物がシンメトリィになっていて、案内表示を左右そっくり入れ替えたら、外の世界を左右反転できるってことだね。だから、警察に死体の場所を案内したところは、ちょうど建物を挟んで元々死体があった場所と反対側だったわけだ」隆仁はうんうんと頷く振りをした。「というか、現実だったらすぐにばれそうだけど……」
「そういうこと言わない! 結構リアリティがあって面白いんですよ……。なんでこう、面白さを減らす考えしかしないの? もっと、あるものを楽しめる感性を持つべきです。幸薄いんですね、先輩」美月は隆仁の予想以上に気分を害し、怒っているようだ。
「ああ、ごめん。実際読むと面白いと思うよ。ただ、傍からスト-リィを聞いているとね、きっと藤寺さんも色々気になると思うよ」隆仁は慌てて弁明した。このように、美月がいつ怒り出すのか隆仁には全く予想できない。
「足るを知る、ですよ。本当に……、先輩が楽しめない分には、私には全然構いませんけど、他人にも害を与えないでもらえます?」美月は頬を膨らませて言う。
「だから、ごめんって……」隆仁は既に、眠気がすっかり飛んでいた。美月が気分を損ねたときは、素直に自分が折れた方が、上手く進むことが多い。だから、何も考えなくても謝るよう、最近では思考が効率化されてきた。
 しばらく気まずい沈黙が流れる。列車はようやく湖西線との合流点、近江塩津を越え、いよいよ福井県に入ろうとしている。隆仁は急な山の斜面を沿うように走るダイナミックな光景に、辺りをきょろきょろとしているが、美月は先ほどからずっと腕を組んで、目の前のただ一点を見つめていた。かなり面倒くさいことになった、と隆仁は横目に思った。
(まだ旅も始まったばかりというのに……)
「ミステリィの外から眺めるとトリックに気づけるってことは……、ミステリィの中にいると、気づけないってことだわ!」またもや美月が叫んだ。隆仁はうんざりした。
「何? どういうこと? ミステリィの中にいるって……」隆仁は美月の言っていることが全く理解できない。彼女の日本語はどうも難解だ。
「私たちの周囲で、ミステリィ小説みたいな、とっても不思議な事件が起きることです」
「ああ……」隆仁は背もたれに深くもたれた。「突然何を言い出すのかと思ったよ」
「先輩、私が適当なこと言ってると思っていますか?」美月が大きい目を見開いて隆仁の顔を覗き込んだ。
「何が?」
「実は……、立山で私たちが泊まる山荘、昔起こった不可解な山岳事件と関係があるらしいんですよ」美月はわざとゆっくりと言った。


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