遊びと人間 - 感想・引用
今回の記事は、フランスの代表的知識人であるカイヨワによる、遊びの独自の価値について論じた本です。
この記事では、本の要約をするのではなく、輪読会を行うにあたり、私が読んだ感想や本からの学び、一部引用を紹介するものです。輪読会用のメモなので、一般的な記事のようにきちんと整理されているわけではないのでご了承ください。
メモ
カイヨワによれば、人類の歴史は「ミミクリとイリンクスの時代」と「アゴンとアレアの時代」の2つの時代に分けることができるという。
カイヨワは遊びの基本的な定義を以下の通り記述している。
自由な活動。すなわち、遊戯が強制されないこと。
隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
未確定な活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の工夫があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
カイヨワは以上の定義から逸脱した遊びは「堕落した遊び」であり、本来的な遊びではないと否定する。
カイヨワは遊びの「パイディア(Pidia)」と「ルドゥス(Ludus)」という用語を発明することで遊びの本質を言い表した。
パイディア(Pidia) 即興と歓喜の間にある、規則から自由になろうとする原初的な力
ルドゥス(Ludus) 恣意的だが強制的でことさら窮屈な規約に従わせる力
遊びとは自由奔放でありながら何か見えない規則に縛られている、一見矛盾した行動であるとカイヨワは位置付けたのである。
アゴン(Agon) すべて競争という形のとる一群の遊び(p.46)。
アレア(Alea) 遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつすべての遊び(p.50)
ミミクリ(Mimicry) 参加者がその人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう遊び(p.55)
イリンクス(Ilinx) 眩暈の追求にもとづくもろもろの遊び(p.60)
カイヨワによれば、人類の歴史は「ミミクリとイリンクスの時代」と「アゴンとアレアの時代」の2つの時代に分けることができるという。
ミミクリとイリンクスの時代とは、つまり呪術や幻覚が支配する時代である。
ミミクリとイリンクスは人類社会から消失したわけではない。 ミミクリは演劇という形で、イリンクスはサーカスといった形で生き残っている。
このように、カイヨワは遊びの分析を出発点として人類文化を研究することができると考えた。 このため、『遊びと人間』は遊びだけではなく人類のあらゆる物事を考える汎用的な方法論として使えるのである。
感想
難しい。
最初はホモ・ルーデンスを発展させる本なのかなと思ったけど、実は社会を分類・分析するための興味深いフレームワーク。
社会が遊びを作るのではなく、遊びが社会を構成していく。
4つの表がある。
パイディア・ルドゥス vs. アゴン・アレア・ミミクリ・イリンクス
Consumerプロダクトにはカイヨワ的な要素が必要とのこと。
つまり、どういうこと?というのがわからない。
カイヨワの定義は6つあるけど、今は非生産的な活動というのが抜けているのかも。
YouTuberが配信でお金を稼いでいるという状況。
この理論を提供して、社会の分析に適用することに集中し過ぎている気がする。
この記事で掲載した引用は、Glaspの機能を使ってエクスポートしています。Kindleのハイライトをエクスポートすることに興味がある方は、以下の記事をご覧ください。
また、この本のトップハイライトは以下のリンクよりご覧ください。