働きたくないから生活保護を受けてみた。毎日が豊かになった。
借金の取り立てを無視していたら電報が来た。最後に支払いを約束した日から5年経つと時効が来るらしいので「来月には払います」の一言を取ろうとあちらも必死である。まあ、受け取り拒否したので向こうの企みは失敗したのだけれども。
私が「受給理由:思想上の理由(働きたくないため)」と書いて生活保護を受け始めて3ヶ月になる。毎月13万円、合わせて40万円ほどを貰ったことになる。これが案外にも額面の印象より素晴らしい生活なのだ。税金も年金も医療費も全て無料であるのは大きい。本稿では生活保護の素晴らしさについて語りたい。いわば、権利収入による不労所得のすすめ、あるいは完全生存マニュアルである。
働きたくないなら生活保護を受ければいい
私が「ただただ働きたくないから生活保護を受けている」と言うと、多くの人は次の疑問を投げかけてくる。「そんな簡単に生活保護を受けられるのか?」――簡単に受けられる。貯金があまり無くて、収入が生活保護未満であれば、誰でも生活保護を受けられる。インターネットは生活保護の実際を知らないコピペ記事ばかりなので「働けない理由が無いと受給できない」などとほざいているが、実際はそんなことはない。少なくとも私は、全て正直に話して受給できている。
これは次のような仕組みになっている。憲法22条・職業選択の自由および憲法25条・生存権に基づき、すべての国民は「無職であるまま健康で文化的な最低限度の生活を送る権利」を保障されているのだ。このことは27条の勤労の義務と衝突するが、法学協会(1948)『註解日本国憲法上巻』は次のように勤労の義務を無効化している。
すなわち憲法解釈において勤労の義務は「働いてもない奴には生存権をあげたくないなあ」という国家の「お気持ち」にすぎない。嘘だと思う人のために、国会図書館デジタルコレクションの原文該当箇所へのリンクを用意しておいた。
また、「ただ働きたくないから生活保護を受給したい」という要求には憲法という大上段の存在だけでなく、生活保護法および役所の職員が携帯している『生活保護手帳』も応えてくれる。
つまり生活保護行政における「受給者は能力を活用しなければならない」という命令が真に意味するところは、①②③のどれかに引っかかるのであれば、能力の活用を十分に試みたが仕方ない、ということになる。私の場合は②か③で引っかかっているのだろう。そこまで徹底して働きたくないわけではないが、面白くて十分な収入を得られる仕事が見つからなければ働く意思は無い。生活保護法立法の過程では「勤労の意思がない者については、勤労を怠る原因をよく確かめ、その人たちを更正させる努力を払わなければならないとされていた」(同前)そうなので、国には労働環境の整備などさらなる努力を払っていただきたいものである。
ちなみに自分の担当のケースワーカーは特に働けとは言ってこないのだが、他のケースワーカーの方と雑談する機会に「なぜ働かなければならないのですか?」と聞いてみたことがある。その答えとして「生活保護だとたった7万円しかあげられないが、働けば30万40万と稼ぐことができる。だから働くべきである」というようなことを言われた。まず家賃分の5万数千円がカウントから外されているのはともかくとしても、30万40万の仕事なんていったいどこにある? 郵便受けのチラシで日給1万円!と輝かしくアピールする警備員の仕事をひと月休まず働いても税金が引かれて30万には達しないというのに。
借金は返さなくていい
国が定めた「健康で文化的な最低限度の生活」を送っているということは、これ以上国や裁判所によって何も奪われないということでもある。だから、借金がいくらあろうともこれ以上何も起こらないので放っておくことが可能となる。というかむしろ、生活保護で得たお金は制度の趣旨により借金返済に用いることが禁止されているので、払いたくても払えないのだから仕方がない。
とうぜん矢の催促はくるが、アコムやJCBなど素性のよい金貸しの人々はわざわざ自宅まで押しかけてくるようなことはしない。留守でも居留守でも丸損するような愚行を大企業がやるわけがないのである。せいぜい弁護士から封書が来たり、電報が来たりするくらいで、いずれも無視して問題ない。一番いろいろな電話番号で催促してくるアコムでもせいぜい3つほどの番号を着信拒否すれば静かになる。
いずれ債権は他の業者や弁護士に売りに出され、そちらから法的措置を取られることになるだろうが、生活保護を受けている時点で裁判所が何かを差し押さえてよいと許可を出すことはないので、負けたとしても実害はない。貧しい人は幸いであるとはよく言ったものだ。
ここまでで「自己破産はしないのか」という声が上がりそうだが、自己破産は面倒なので、いまのところ放置している。債務整理が専門のケースワーカーの方に伺ったのだが、自己破産は弁護士におまかせで済むようなものではなく、自分で家計簿をつけ、休眠口座も含め二年分の記録が必要になるため早くて半年程度かかるそうなのである。
ちなみに普通は自己破産するにも弁護士等の費用が50万円程度かかるそうなのだが、生活保護受給者は無料で破産できる。しかし一度家計簿やら銀行やらの手続きを怠ってしまうと最終的に弁護士が降りてしまい、二人目の弁護士が見つからないことにもなるので「破産するなら覚悟が要る」とのことである。その方は本当にお役所仕事のプロみたいな人で、「破産されるのもされないのも、本当にいろんな方がいらっしゃいますからねえ」と、とことん同情抜きの他人事としてドライに接してくれたので非常に助かった。破産させるのが仕事で、破産する人間にいちいち感情移入していたら身が持たないのだろう。
なお、今現在困窮しているが生活保護には抵抗がある人は、国から借金するとよい。東京都の一人世帯なら3ヶ月間で最大34万円程度借りられるのだが、無利子かつ困窮時の返済延期が可能という超優良ローンなので、借りられるのに借りないのは絶対に損である。カードローン等の借金があっても、正直にそれを書けばそうそう落とされることはないようである(ソースはヤフー知恵袋と私)。
働きたい人だけが働けばいい
かつて上野千鶴子は「どう犠牲者を出さずに軟着陸するか、日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」(2017.02.11 東京新聞)と述べた。私は「ハイソ」に生きながらそんなことをのたまう上野を心から軽蔑するが、しかしこの場合に限って言えば上野は偶然正解している。
貧しい人は、ただ貧しいことを受け入れればよい。餓死者が出るような国であれば違っただろうが、現代の日本においてほとんどの場合はそうである。貧しくても真に・善に・美に生きることはすでに十分に可能である。月に13万円もあれば、始皇帝やアレクサンダー大王よりも贅沢な暮らしさえ簡単にできる。
ミシェル・フーコーやルネ・ジラールほか多くの哲学者たちによれば、われわれの欲望のほとんどは他者の欲望である。われわれは、他者がそれを欲しいと思っているのを見て、はじめてそれを自分も欲しいと思う。例としてはインフルエンサーが見せびらかすブランド品や、恋人ができた途端にモテはじめる現象を挙げておけばよいだろう。
だから、自分が本当に欲しいもの、自分が本当にそれ無しでは生きていけないようなものは、そう多くない。ましてそれに多額のお金が不可欠であることは、さらに少ないだろう。たとえば現代においてさえ多くの人々は「正社員になって稼ぎたい」と思っているが、稼いだ結果として何が欲しいのかは分かっていないはずだ。
私の場合それは「学問の知と共に生きる」ことだった。これに必要なのは、せいぜい書籍代とインターネット回線だけである。学界での評価なり、研究者としてのポストは自分にとって不可欠なものでない。
それに気づいたとき、はじめて多くのことから自由になれたのだと思う。それまでの私にとって学問というのは半ば楽しみであり半ば(社会的成功を見据えた)義務であったのだが、いまや完全に楽しみとしての存在になった。たとえばそれまで頭の中にずっとあった「学問をしなければならない」という重たい義務感が、「まったく必要ないのに考えてるなんて学問超好きじゃん」という明るい肯定に変わったのだ。
たしかに、かつての世代が得ていた多くの恩恵にわれわれがあずかることはできない。しかし、自らがこの世界に生まれる前に既にして失われていたものを「失われた」と表現することは本当に正しいだろうか。さらに言えば、かつての世代があずかりえなかった多数の技術的可能性にわれわれは開かれてさえいる。ならばこれは不平等というよりも、むしろ単なる差異というべきではないか。
「みんなが働かないようになったらお前だって困るだろう」とはよく言われるが、私はそうはならないと考えている。世の人々は、当人たちが信じている以上に働きたがっているのだと思う。
なぜなら無職であり続けるためには才能が必要であるから。孤独に耐える才能、社会の無理解に耐える才能、他者の蔑視に耐える才能、そうしたものが必要とされるだろう。私は年に4回も友人とオフラインで会えばちょっと多くて疲れるくらいの出不精なのだが、すでにきちんと社会生活を送っている人はこの生活になかなか順応できないのではないかと思う。
いまどき、月1,000円も出せば映画とアニメは見放題で、音楽も聴き放題。本やゲームは月に数千円もあれば十分すぎる。たとえば今日はドストエフスキーとミクロ社会学と古代ギリシャ哲学を少しずつ学んだ。こうした贅沢な楽しみは、趣味として学問する者の特権である。これ以上何を望むというのか? まあ、望む人は望むのであろう。その人は無職の才能がないので、きちんと働いてくれればよい。
無職の才能に恵まれし諸君!
私はこれまで何も奪われてはいないし、この社会がすでに十分素晴らしいものであると知っている。かつてジョン・メイナード・ケインズが1930年に著した「孫たちの経済的可能性」(山形浩生訳)は、次のような書き出しで始まる。
数字をひとつ書き換えれば十分に現代の説明としても通用するだろう。そうした時代に対するケインズの主張はこうだ。技術の進歩はやがて人類のニーズを満たすための労働時間を限りなく小さなものにしていくのだから安心すべきだ、と。
ケインズはこうした社会が孫の世代、2030年までには実現すると考えていた。そして、少なくとも日本に限って言えばその状況はすでに人知れず到来している。そのような時代を「賢明にまっとうで立派に生きる」ためにはどうすればよいかも、ケインズは説明している。
大恐慌の最中にユートピアを説くケインズの小論は当時まったく相手にされなかったが、しかし今になってみればケインズは正しかったとわかる。
たしかに私は働きもつむぎもしない無職だが、しかしこうした野の百合たる無職が増えれば、より多くの人々が幸福に暮らせるだろうと思う。働く才能が無く、無職の才能を持っていると気づかず働かされている人はもちろんのこと、これからも働き続ける人々にとってもそれは言える。いままでのように多数で仕事を奪い合う、それもその仕事をやりたくもない人々と奪い合う状況は緩和されるであろうから。美徳が不幸に見舞われ、悪徳が栄える時代の終わりはすでに現代のうちに用意されている。
諸君! 無職の才能に恵まれ、現代の社会に苦しんでいる諸君に私は「社会を降りる」ことをお奨めする。そのための装備はこの記事で十分に紹介したつもりである。
底辺の頂点で、あなたを待っている。