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体験はしていなくても

20代の頃、50代女性が“肩が上がらなくて辛い”と話してくれたとき、それほど気に留めていなかったです。自分が40歳ぐらいで肩関節周囲炎いわゆる50肩になって初めて、これほど辛いとは!…ちっとも知りませんでした。
その診療をしてもらったとき、若い医師の表情で、あーよくあることって思ってるなというのがわかり…うーもっと真剣になって優しくして、と歯がゆかった。でも、そりゃ、未経験だとこの痛さわからないよな…まだ若いし。自分もそうだったし。
TV番組で、晩年の石牟礼道子さんのドキュメンタリーを観たことがあります。車椅子に乗った石牟礼さんが、水俣病患者の病室へ出向き、“歩けないってほんと辛い、辛いね”と実感込めて話しかけておられた。水俣病患者の心を深く代弁している、と評された石牟礼さんでさえ、歩けない辛さは体験で初めてわかったこと、たくさんあったんだろうな。
そう、体験している、ことは、体験していないことより圧倒的に理解の深さが違います。
不思議なことに、自分にとって良いことがかなえられたときに、想像と全く違う!とはあまり思わない。でも、不幸は自分事になって初めて痛切にわかり、動揺する。
健康でなくても、災害や飢饉や戦争…その犠牲になることも、未体験ならやはり他人事。
世の中には、世界には、大変なことがたくさんあるけれど、それをいつも“自分事”と同じように心を痛ませていたら、生きてはいけない。明日食べるものがない、空からいつ爆弾が落ちてくるかわからない…その当事者としての自分を考えるだけで、心が落ち着かなくなる。自分事になる可能性が低いことには、興味が薄い…それは残酷な人間の性。
でも…。
苦しんでいる人の心をまったく想像しないのは、それはやはり、人としての心がないということとイコール。そういう冷たい人が大手を振る社会にはしたくないな…微力だけど。
人の心は、怖い。日常の小さな意地悪も残虐な戦闘行為も。人の心が引き起こすこと。
武器を持った争いは、取り返しがつかない破壊を引き起こします。皆が疲弊して反省して、そうしてもう二度と戦争は嫌と誰もが願うはず。戦争直後は復興景気もあって、無から立ち上がろうという明るい希望が満ちていて…けれど、そうした一連の流れの体験を、身を持って知らない人が社会の多数派になってくると、また、再び、破壊を引き起こす方向へと物事が進んでいく。
体験したこととしていないことには、大きな溝があるけれど。
人の心を持った強い想像力だけが、その溝を少し埋めて浅いものにしていく。

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