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居住、移転、職業選択の自由

……は、日本国憲法で規定されています(って、憲法の存続自体が危うい感じなんですが)。当然あるべき人権、とされているけれども…法律ではそうであっても…。
中学校時代(1970年代)、中国の農村戸籍って出てきて、生まれた場所によって住む場所決まってしまうなんて理不尽な、と強烈に思った。よかったここが中国でなくて。でも…。
農村地域で生まれ育った私が、紆余曲折ありながらも、現在都会暮らしのわけですが…。
家は存続させないといけない、親の老後は子供が見る、という、社会的な縛りが、地方では根強くあります。その社会的呪縛は、個人の心にも抗い難い枷を与えている。
都会で暮らしている地方出身者には、若干の後ろめたさがありがち。居住も職業選択も個人の自由、実家を継いでいる兄弟姉妹に対しても“自分で選んだ選択でしょ”と言いたいところだけれど。故郷に実家が存続し、墓を守ってくれる人がいる安堵感は大きい。
墓なんて、ねえ。
先祖代々の墓をつくり各自の家の維持を重要視するようになったのは明治以降、と読んだことがある。ヒット映画「老後の資金がありません!」の原作小説(垣谷美雨作)でも、老後のお金の算段に苦労している主人公が、“そもそも、人類に墓が必要か”って嘆く場面があったっけ。
墓と言えば寺の息子のこと思い出す。BSプレミアムで、昔放映されたドキュメンタリーのアーカイブ放送を観た。それは、過疎地で寺がなくなってきているという、1980年ぐらいだったか少なくとも20世紀の番組。ある中年男性が久しぶりに帰郷し、檀家の人とわけありの宴会をしていた場面。彼は、寺を継ぐのが嫌で若い頃家出した。けれど、親が亡くなり廃寺が決まったことで、郷里の檀家に説明と謝罪にきていたと記憶している。確か檀家の面倒は近隣の寺にみてもらうことになったような…。
彼はどれほど悩んで生きてきただろうと、胸が痛んだ。詳細な事情はわからないけど、寺を継がないことは郷里の人に顔向けできないことだったんだなと。
寺の子には、本来あるはずの職業選択の自由について皆見ないふりをしている。
昔、高野山にバス旅行したとき、同行者に寺の息子の高校生がいた。仏教大好きで、嬉々として密教関係の本を探してたな。そういう者は、寺の跡継ぎでラッキーな気持ちだろうけど。
家を継ぐ人がいるのが安泰、という考えは、簡単になくなりはしない。でも、生まれた環境で…どんな家業でも高貴な生まれでも…居住、移転、職業選択の自由がなくなってはいけないという強い気持ちは、ぶれないようにしていたい。

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