相手を知ろうとする姿勢
昨日、「ドライブ・マイ・カー」の感想文を投稿したのですが、作品の中で、“他人を知るには、まず自分自身を深く知ること”というような言葉があったかと。その通りなのだけど。「相手を知ろうとする姿勢」がある人には、そういう理性的な自分でありたいと強く思う。けど。そうでない…自分の意に沿わなければシャットアウト!の人に会うと、なあ…。
こちらが心を尽くしても、へとへとになるような相手。話をそらす名人で、いかなるときも自分が正しい、のポジションを崩さない。そして、卑怯な“おちょくる”という行為。
都合の悪い議論をしたくないのは、きっと、日本の風土と歴史が培ってきた国民性。
(以前書きましたが)YouTube番組のニックちゃんねる♪の中で、アメリカ人は口論を恐れない傾向がある、とのこと。羨ましいけど同時にすごく疑問…だって、銃が自由に持てる国なのに、恨みを買ったら怖くないの?…そういう気持ち、ずっと消えない。その違いが納得できて初めて、アメリカ人の精神性がわかったと言えると思う。
「銃で撃たれ殺されるかもしれない怖さ」よりも、自分の主張が優先されるかの国の不思議。ニックちゃんねる♪によると、アメリカ人の場合、議論をもやもやのまま持ち越したりしないことがほとんどで、夫婦が離婚したあとも友人として普通につきあうことが普通。日本だと、離婚=二度と会わない人が多いようだと。また、夫婦に限らず、自分が悪いと思ったらすぐ謝るし、納得したら自分の考えを変えることもよくあるとも。
アメリカ社会は、日本よりはるかに、“自分が議論に負けそうならおちょくって相手の心をくじいてしまう”という、嘲笑冷笑の文化が少ない。どんなに言い争っても、相手の、人としての存在は否定しない。その精神がもの凄い強度を持って、社会に根を張っている。
他人は自分とは違う存在で怖いもの、という意識は、おそらく万国共通。それを乗り越えて、コミュニケーション取っていかなければ、人は生きていけない。
日本は、“自分の考えを最優先し誰にも侵させない”気持ちを持つことで、自分と社会の折り合いをつけようとする人が多い国なんだろうな。政治が自分の思い通りにはまったくならない、という諦めもきっと関係している。
「相手を知ろうとする姿勢」がまったくない人と対峙するのは、ほんと心が折れます。悔しくて心がはちきれる。その怒りは正当でも、怒りにまかせて自分の心を真っ黒にしないよう注意したい。「相手を知ろうとする姿勢」の大切さは、どんなときも忘れずにいたい。
どんな信条であろうと、少なくとも、話を折らない、おちょくらない人には、敬意を忘れずに接したいと思う。