
1年弱で418冊、小説が増えたので「速読」を実装する旅に出た
部屋の模様替えを機に「ひとりブックカフェ」と名付けてnoteのアカウントを運営したり、ブックカフェっぽい小物づくりとかしたり、写真集作ったりしているうちに気付けばもうすぐ一年経ちます。
タイトルの通りですがこの一年弱で418冊増えた。小説が。すごいな。全部もらいものです。すごいな?
実はすべて親戚からいただいたものです。そう聞けば別に大したことはないように思われるかもしれませんが、僕が驚いているのは、特に自分から「ひとりブックカフェ」ってのをやってるから本をくれ、みたいな話はしていないということです。もちろんどこからも漏れません。こういうnoteのアカウントとかInstagramのアカウントとかも絶対見てません。
単純に親戚たちの本を片づけたいタイミングと「ひとりブックカフェ」を構想したタイミングが重なったということ。僕がすごいな、って思うのは、このタイミングの重なり方のこと。
良いですねえ、シンクロニシティというやつですか。
プレッシャーと速読
418冊の中身ですが、おそらく半分くらいが時代小説(内訳は割愛)、その他多いのは石田衣良作品、市川拓司作品、続いて奥田英朗作品、それから東野圭吾作品がちらほら、それからいくつかの単品、という感じです。
見事に僕が今まで触れてこなかった作家たちです。
正直、興味がなかった作家たちとも言えます。
しかし縁ができた。だから読もう、と思って既に数冊読んでいますが、一年の日数より多い数の積読が一気に増えて、僕は謎の鬱状態です。謎の鬱というか、単純にプレッシャーです。
こういう状態での意思決定はあまり良くないとは存じておりますが、ここ一か月くらい、「速読」という能力を希求する自分がいます。
だってもらった400冊の他に、自分で欲しくて買った本が少なからずある。自分が読みたくて自発的に買った本を読みながら、いただいた本を読む。
もちろん積読を積極的に肯定し、積んだままにするのも良いのですが、読みたいものは読みたい。
速読って今までけっこう否定していたけど、どんなもんなんだろう?と思った。失礼を承知で言ってしまうけど、多分、これまで興味を持っていなかった作家の本だからこそ「速読」なんてワードが僕の頭の中に出てきたんだろう。さっと楽しみたいなあ!さっと。みたいな。
Kindle Unlimited内に速読法に関する本がたくさん並んでいて、数冊読んでみる。ああ、できるかもしれない。ほとんどの本で共通している概念がある。よし、急がば回れだ、一回愚直に速読法を学んでみよう。損はないはずだ。
こうして速読の旅が始まったってわけ。
速読を肯定する自分と否定する自分
石井千湖著『積ん読の本』を読む。
速読に対する期待と疑念が綯い交ぜになった頃のこと。つい最近のこと。
池澤春菜さんのお宅が紹介されている。おお、最近よくお名前を聞く気がする。あの池澤夏樹の娘で、大変な読書家で、非常に読むのが速いらしい。
どうしてそんなに読むのが速いのか、という質問に池澤さんは、目がカメラのようになっていて、一文字ずつ読むというよりは、シャッターを切るように文をひと固まりで読んでいるというようなことを言います。
速読じゃん。どの本にも書いてあったやつじゃん。
速読を学んだりしたことはないんですけど、というようなことを池澤さんが言う。
なるほど、ほとんど先天的にそういう読み方ができる人もいるのか。
しかし、これで速読に対する疑念というか、速読を学ぼうとする邪さが吹っ切れたような気がする。
即ち「速読ってそれ、読んでることになるの?」「ちゃんと読めてるの?」という疑念であり、池澤さんは当然読めているわけだから、速読法的なものをできないうちから敵視する必要はなし、と判断した。
いや待てよ?なにがどうしたら人は本が読めている、ということになるのだ?
実際きちんとできているかは別にして「速読法」的なもので何冊か読み切ってみた。速いってほどじゃないけれど、今までの自分では考えられない速度で一冊の本を読み終わったとき、体感として、読めてるな、と思った。少なくとも、ストーリーは把握できた。
従来の僕の、固い頭で判断すれば、読めていない。
平野啓一郎著『本の読み方ースローリーディングの実践』や阿部公彦『小説的思考のススメ』を読書の師としていた僕は、時間をかけることを読書の醍醐味と思いこそすれ、さっさと読み終わることを目標とするなんてことになると思わなかった。
速読を否定する自分は根強くいる。
しかし、言うほどスローリーディングだってできてないな、とも思ってた。句読点まで吟味して読んだり、冒頭文だけで何分も立ち止まったりすることなんかめったにない。そうしたいと思える本だって、そんなにあるもんじゃないと思う。
分かろうが分かるまいがとにかく一文字ずつ読んで、その場その場でなんか感じたり感じなかったり、お散歩みたいな時間を過ごして、いざ読み終わったら覚えているところはほんの数か所、有体にいえば「印象」を持っているに過ぎない、なんてことが普通。ほんと、散歩みたいだ。それで満足でもある。
諳んじている文章が一つでもあるか?好きだ好きだと言っても、そらで引用できる文章が一つでもあるか?
じっくり読んでも、カメラでシャッターを切るように読んでも、結局僕の脳が疲労情報量は変わらないんじゃないか?
こうして速読を肯定する。
速読不可本
速読に向く本と、そうじゃない本があることも分かってきた。
これはあまり説明しなくても分かってもらえると思います。言い回しが難しい本は速読が難しい。
それから単純に速読したくない本がある。ゆっくり時間をかけて読みたい本がある。
いずれも今の僕の場合、カート・ヴォネガットの作品がそうです。
正直一文字ずつ愚直に読んでもいつの間にか意味やストーリーから置き去りにされる感があるから、今の僕の技術で速読なんかしたら、本当にページを捲っているだけになる。
よって今のところ速読不可本の筆頭にカート・ヴォネガットが君臨している。
速読に関して、まだ言いたいことはいくつかあるけれど、なんだか冗長になてしまいそう。
とにかくまあ、こんな感じで、僕の速読の旅は始まったばかり。