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言語化による思考の婉曲

これまでずっと言語=思考だと思っている節があった。思考は言語化せねば整理できず、相手に伝えることもできないから。

しかし最近は、全く違う、むしろ言語は思考を捻じ曲げ、切り取り、歪にする性質があると思うようになった。

故に、相手と言語で会話をしていると、一人で考えていた時とは別の思考回路が発生していく感覚がある。

言語化するとき、思考はかなりの割合で環境要因を受け、その発せられた言語によって思考もまた影響を受けている。

言語化はカテゴライズであり、切り取りであり、人が本来持っている莫大な感覚情報を細切れにして限定していく。

ゆえに、人の言葉は常に矛盾を抱え、相手により変化し、自身もまた、本来何を感じていて何を考えているのか、わからなくなってしまうのかもしれない。

言語化が得意な方がコミュニケーションが円滑であるし、思考も合理性がとれ、感情の整理もできると、メリットばかりに目を向けていたが、

言語化しないことで、ありのままの思考状態を抱えることができるのではないかという仮説が自分の中で燻っている。
物事をはっきりさせたい合理主義が強い自分だが、ここのところ宙ぶらりん力など、曖昧さの余白を持つこともまた人生の豊かさに繋がるのだろうと考えるようになってきた。

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