ばあちゃん麦茶
ばあちゃん!麦茶!
靴を脱ぐより先に、窓の開け放たれた居間に大きな声がフライングで飛び込んだ。
返ってきたのは風鈴の音だけ。チリンチリンと申し訳なさそうに返事をする
どうやら彼以外家には誰もいないらしい
家の中に自分に麦茶を差し出してくれるものがいない事を確認すると、私は靴を右左違う方向に脱ぎ飛ばしながら台所に上がり込み
食器棚のグラスを手に取り勢いよく冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出しなみなみ注いだ。
とりあえずの一杯を喉を鳴らしながら飲み干して二杯目を注ぐ。
グラス半分ほどで麦茶を注ぐのを止め、さっきよりは落ち着きを取り戻した動作で冷凍庫から氷を取り出し2,3個グラスに沈める
そのまま居間に足音を鳴らしながら侵入し、グラスをちゃぶ台に降下させる
ドンという音で中の乗客がバウンドしたが無事着陸したようだ
一連の動作を終え一息をついてちゃぶ台の前に座りすぐに縁側に向けて足を投げ出した。
誰もいない部屋で頭の中のビデオが再生され始める。
夏休みのたびに帰った祖母の家。夏休みの宿題は後回しにして従兄弟と川に行って気が済むまで遊んだ。
帰ってくれば勿論まずは水分補給。祖母に麦茶を入れてもらっていたが健康を気遣ってか氷は入れてくれなかった。
身体が冷える。だそうだ。
チリンチリンと風鈴の音が合いの手を打ち、意識が今に引き戻される。この風鈴は昔からこの場所に掛けられていて今も変わっていない。
川から帰って水分補給をした後はこのちゃぶ台で宿題をやらされた。一通り鉛筆を躍らせ、飽きると縁側に向かって足を投げ出してギブアップ。その癖は今も変わっていない。
チリンチリンと再び風鈴の音が今に意識を呼び戻す。あの頃と同じ足を投げ出した格好ではあるが今では足先が縁側を跨いでいる。
ふと目を横にやるとちゃぶ台に置かれたグラスは中の氷が溶けてきていて、ぽつぽつと汗をかき始めていた。
チリンと先程より弱い声で風鈴が鳴く。さっきまでの彼は昔と変わらない姿に見えていたがよくよく見てみると永年日光にさらされた影響だろうか、中の模様がくすんで見える。
帰ってきてこの場所に座ってからしばらく時間が経ったらしく部屋はオレンジ色に染まりつつあったが私はまだその場から動けなかった。いや、動きたくなかったのだ。
母と姉は近くのスーパーに晩御飯の買い物に行っている。祖母の葬儀に関する後片付けや挨拶回りは今日で終わりらしかったが、面倒なので晩御飯は買ってきたもので済ませるという二人の会話を今になって思い出した。
あの頃と同じ部屋にあの頃とは違う自分。抗えない時の流れとともに変わらない思い出を握りしめながらこれから二度と言う事はないセリフをどうしても言いたくなり、誰もいない部屋で口を開く
ばあちゃん。麦茶
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