昭和初期の活版印刷で出版された詩集の再復刻作業(その1)
1年前から計画していた1930年に出版された詩集の復刻を開始しました。まだ5分の1の作業を終えたばかりですが、感じたことを書かせていただきます。
小説とか散文の初版本と違い詩集の初版本はある意味では本全体で一つの詩を形作っていると言える場合があるかと思います。例えば詩画集となるとどうしても初版本の勢いを再現するには初版と同じ工程で本を造らなければならないことになりかねません。
私が再復刻をしている詩集は尾形亀之助の『障子のある家』です。この詩集の初版本はどこかに所蔵されている方はいるのかもしれませんが、公には現存が確認されていません。しかし、戦後直ぐに草野心平が辻まことが持っていた初版本を元に奈良の印刷所にこれと全く同じもので復刻して欲しいと依頼して復刻を行っています。そのできばえに草野心平は驚いて、似せなくてよい紙がヤケて黄色くなった色まで忠実に再現してくれたと後日語っています。そこから推定するに、草野心平が復刻した尾形亀之助『障子のある家』は、文字組も装幀も初版本とほぼ同じと考えられます。
テキストとして障子のある家は、著作権が切れていますからネット上では青空文庫で全篇読めます。また思潮社からは尾形亀之助全集(初版1970年版、増補改訂版1999年)と現代詩文庫の尾形亀之助詩集(1975年)で読むことができます。ですからとりわけ初版本を復刻する作業に大して意味はないわけです。
そんなわけなのですが、前述した詩集における初版本の意義を考えた場合、とりわけこの詩集は辻まことの逸話などから、できるだけ初版本に近い形で詩を味わいたいと思った次第です。
上記の画像は目次の頁です。用紙は四六判で45キロというとても薄い紙を使っています。なのであまりインクを濃くして圧を高くすると裏面の文字が見えて読みずらくなります。かといって印字が薄すぎるとこれまた読みずらくなります。私の技術ではこれが限度かなと思います(スキャンしているのでなおさら裏の文字が見えていますが、実際は太陽や蛍光灯の光が当たってそんなに裏の文字は気になりません。私感ですが・・・)。
目次の頁の活字の種類は、詩集の表題「障子のある家」は3号活字、詩の表題は四号(13.75ポイント)活字、三点リーダーは五号活字、頁数は五号活字です。五号活字と四号活字の組み合わせは五号活字の行に2ポイントとトタン(五号活字の8分の1の厚さ=1.3125ポイント)の金属活字を五号活字の左右に挟んで四号活字と合わせています。四号活字の大きさである13.75ポイントと五号活字(10.5ポイント)プラス金属インテルの厚み(3.3125ポイント)では0.0625ポイントの差があるのですが、ジャッキで絞ると組版は崩れないのでこのくらいの違いは問題ないということかなと思います。行と行の間に木のインテルを入れているので、これくらいの幅の違いは木が持つ伸縮性で吸収されると私は考えています。
この頁で面白かったのは三点リーダーが詩の表題と頁数を結びつける罫線のような役割を担っているのですが、それぞれの表題の長さが違いますから最後の頁数の活字の直前で揃わないことになるのです。そうなると見栄えが悪くなります。そこで頁数の活字の前で三点リーダーがきちんと揃うように四号活字の表題の文字間にスペースを埋めて揃えるよう調整しています。「年越酒」は表題の終わりに二分のスペースを入れています。一行の長さを行末で揃えるために、どの場所にスペースを入れるのか、植字工の考えになるのか、作者の考えになるのかわかりませんが、意図的に行っているわけなので、活版印刷の復刻作業ではなかなこの辺の処理を確認しながら組版をしてゆくことは面白いです。とても些細なことなのですが勉強になります。
面白い例を紹介します。
これは詩「年越酒」です。文字組は明朝9ポイント45文字行間8ポイント15行約物全角処理(ぶら下がりなし)となります。私が再復刻のために文選、組版をしたものです。ここの6行目から7行目にかかって「「すばらしい散歩」−−などの、」という活字が出てきます。行頭禁則処理を行わなければいけない活字が行末の44文字目から3文字(「 」−− 」)繋がっています。この3文字の活字はどれも途中で区切って行頭にもってくるわけにはいかない文字です。
通常でしたら、処理の方法はスペースを入れて活字を追い出すか(現代のワープロなら簡単に均等割り付けをしますが・・・)、約物を半角処理にして活字を詰めるか、どちらかになります。しかし、この詩集の初版本(復刻された初版本)は、全角ぶら下がり処理なしとしています。なのでスペースを入れることになるのですが、2文字分追い出さなければならなくなります。2文字分のスペースを例えば四分を8枚入れるとなると、結構他の行との関係で違和感が出てくる可能性があります。
結果は、1文字分だけスペースを四分4枚で入れ、「 −− 」の約物を行頭に持ってきました。禁じ手なのかもしれませんが、私は敢えてこうしたと想っています。それは四分を入れた位置が「すばらしい散歩」の「すばらしい」の間に入れて「すばらしい」という文字の文字間を広げ、足を大きく広げあたかも宙を舞うようにすばらしい散歩をしている感覚を生み出しているからです。そして一拍おいて(要するにジャズのアフタービートです。ローリングストーンズのドラマーであるチャーリー・ワッツのドライブ感を引き出すドラミングです。)行頭で、−−から始まるという企みです。
こんなことを書いていますが、多分、私の考えは外れているのでしょうね。
でも
これは、思潮社の「尾形亀之助全集」(初版)です。復刻された初版本とほぼ同じ文字組です。ここでは上記で取り上げた「「すばらしい散歩」−−」の箇所が約物を半角処理することもなく、均等割り付け処理で禁則を守っています。で、次の行頭に「などの」と入っています。文章を読んでいると、行頭に「などの」とくると、ぶっきらぼうに始まる感じがして、読むときの間合いがなんか違和感があります。そう感じるのは私だけでしょうか。
こちらは同じ思潮社から出ている現代詩文庫の「尾形亀之助詩集」です。文字組が違うので比べようがなく、論外(テキストデータとして読める意味は十分にあります。)と言いたいところですが、取り上げた箇所を見ると前の全集に比べたらこちらのほうが読みやすいです。
そんなこんなでなかなか面白いと勝手に想っています。この詩集『障子のある家』は、自序があり後記があります。どれも有名な(一部で?)文章です。頁の構成は、<中表紙→目次→自序→詩作品→おまけ→後記→奥付け>となっています。でも、目次では<詩作品→自序→後記→おまけ>となっており、実際の掲載の順序と目次の並びは違っています。おまけを本当に最後の楽しみにしたかったのかもしれません。最初に書きましたが、この詩集は本の装幀を含めた全体があって初めて詩集が成り立っている風体をしています。よく取り上げられる有名な文章が、実際は奥付けに小さく印刷されているものだったり、自序や後記自体が詩作品となんら変わりなくそれ自体が詩となっていることなど、取り上げれば面白い点がいくつかあります。
復刻作業は、昔の印刷工の人の仕事が見られることでとても面白いですし、また最初に作られた形そのもので作品の魅力を感じることができ、とても楽しいです。
作業が進み、またなにか気づいたことがありましたら書かせていただきます。
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