【ウエアハウス】言葉を分解するホワイトノイズ
ふせったーに投稿した感想の移植です。
公演名:『ウエアハウス-double-』
公演期間:20200125-0202
公演会場: 新国立劇場小劇場
投稿日:20200126
今日は友達と隣同士に座って観劇したのだけど、恐怖が高まるシーン(主にホワイトノイズがかかるところ)では手を握り合いながら見ていました。
わたしは、ホワイトノイズはディスコミュニケーションのサイン、相互理解不成立の時に現れる音だと思っています。
コミュニケーションが滑らかでなくなった時。投げ交わされていたお互いの意思がスリップした時。そして、言葉が放棄されて暴力が選択された時。
ホワイトノイズはその無機的な音で、意味を備えるあらゆる言葉をかき消し、呑み込んでしまう。ホワイトノイズがかかる場面では人間間(かん)の全ての言葉が無力になります。
(「拾え!」はもはや言葉ではなく、犬に「お手」「おすわり」を命じるのと同じレベルの記号だったのではないでしょうか)
相互理解が成り立たないとわかった時の絶望的な恐怖は耐えがたいもので、それがホワイトノイズによって聴覚的に、観客の心に届きすぎるくらいダイレクトに表現されていたと感じます。
(ていうか、あんな原始的に恐怖を煽る音を使うのがずるい)
とにかくわたしにとって、ホワイトノイズがかかる場面は一気に恐怖が高まるシーンでした。
あらゆる言葉が無力化して、人が人の形をした何かに見えて、誰も信じられなくなる、そんな恐怖空間の中で、友達と握り合った手の温もりだけがよすがでした。
「今自分が握り締めている手の温度だけが信じられる」と思った。人肌の説得力って、こんなに強かったっけ…
ビートジェネレーションと呼ばれる文学グループは性的抑圧からの解放を目指したことも特徴のひとつだそうですが、その意味をなんとなく体感できたかもしれません。少なくともある限定された状況においては、身体接触は言葉より強いのだと思う。
でも…身体接触が言葉を凌駕するのは、「ある限定された状況」に限るのか、それとも常にそうなのか(つまり、言葉はいついかなる時も無力なのか)、考え込んでしまう。
「言葉は無力じゃない」と思いたいけど、この作品を見ていると本当に気が滅入るので、「言葉は無力かも…」という気持ちになってきます。
少なくとも現代社会では、誰もが安全な場所から出たがらないこの現代社会では、言葉はただの音に過ぎないのかもしれない。
わたしが会話だと思っていたものは、本当に会話だったのだろうか?
本当に気の滅入る作品です。