見出し画像

「由布院で猫と蛍と」

小説家の一哉は年に数回、温泉街の宿に篭って作品を書き上げる。今冬の目的地は大分の由布院だ。3泊4日、猫を連れて。

3日目の夜、執筆は佳境を迎えていた。

「先生、」
「……未来、私のことばかり見ていないで、何かしていなさい」
「猫は、先生を静かに見つめているものなんですよ。さあ、そろそろご飯を食べましょう」

お宿の人が待ちくたびれて何度も私に配膳時間を聞くのです、と未来は首をすくめた。

画像1

画像5

鍋の蒸気で眼鏡が曇り、顔を顰める一哉に声を立てて笑う未来。

「……笑わなくても、」
「先生の表情が見えなくて寂しいです」

間髪入れず返された未来の言葉に苦笑する一哉。

「先生は食に興味がないですが……この御膳には地元の名産品が沢山入ってるんですよ。先生にも味わっていただきたいのです」
「……有難う、そうさせてもらうよ」

指図されるのは好きではないが未来の言葉は素直に受け取ってしまうのだから、我ながら単純だと一哉は不思議にすら思う。

美味しい食事に舌鼓を打ち、さて仕上げに取り掛かろうか、とPCに向かおうとするとすかさず「温泉街を散歩しましょう」と未来が誘う。

「私はこれを書き上げてしまいたいのだが」
「先生、今夜が最後の夜ですよ。終わりが見えているのでしたら、少しだけ夜風に当たりませんか」

彼女に手を引かれ、一哉はしぶしぶ外へ出る。

画像2

「綺麗!」
提灯が幻想的に灯る湯平温泉の石畳通り。一哉も感嘆の溜め息を漏らす。

画像3

「公衆浴場が沢山あるみたいですよ。入っていきますか?」
「宿には貸切の露天風呂があっただろう」
「やだ、そういうのは覚えてるんだから」

茶化されてむっとした表情を見せた一哉の腕に絡みついて未来は楽しげに話す。

「檜のお風呂なんですって。1時間ごとに貸切ができて、家族でも一人でも入れるみたい。今日は私たちしか泊まっていないそうなので、直前に声をかければ良いそうですよ。露天風呂は、夏なら蛍が見られるみたい」
「……蛍はいいな」
「はい。こちらには、明日チェックアウトした後にでも来ましょうか」
「まあ、無理に来なくても良いのだが」
「折角ですから、色々なことを経験されたほうが良いのでは。何か作品に役立つかもしれません」
「……君がそう言うなら、そうしよう」

冷えた身体のまま宿に戻れば、「お風呂に入る?」と女将に話しかけられる。
「あ、はい、すみません。今からでも大丈夫でしょうか?」
「ええ、他にお客様もいらっしゃいませんし、ごゆっくり」

脱衣所から既に貸切でテンションを上げた未来が風呂場の扉を開ければ、室内には檜風呂、そして露天風呂へ続く扉。
「先生見て!凄い!」
「あまりはしゃいでは危ないだろう」
「お父さんみたいなこと言わないで(笑)」

静かに湯へ身体を沈めると、幸福感に包まれる。ひとしきり檜風呂の香りを楽しんだ後、露天風呂もちらっと覗いてはみるが、雪積もる様子と吹きさらしの風に慌てて扉を閉める。
「……寒すぎます」
「……寒すぎるな」
「夏はここに蛍が沢山いるなんて、最高ですね」
「最高なんて小説家として無闇に使いたくないな」
「でも、素敵でしょう?」
「……ああ、勿論」

うっとりと語る未来に一哉は意地悪をしたくなる。
「蛍ってよく見たことある?」
「……いえ、近くでは」
「後で調べてみるといい。黒くて、触覚が生えていて……」
「……! 野暮なことを言わないでください」

未来にはコーヒー牛乳を、自分には缶ビールを1本だけ買って部屋に戻る。あまり飲みすぎては支障が出るだろう。もう殆どは書き終わっているのだが。

「先生、お土産のジャズ羊羹、少しだけ召し上がってはいかがですか」
「自分が食べたいんだろう」
「……いいえ?」

説得力の無い未来の顔に呆れながらも、許可する。

画像5

「本当に鍵盤の柄なんて、綺麗……」
「そうだな……食べたら、君は先に寝なさい」
「私に手伝えることはないですか?」
「明日、帰りの飛行機の中で読んでもらおう」
「……一人では、お布団が冷たいんです」
「私はもう少し続きを書きたいんだ。猫は、先生を静かに見つめているものなんだろう」
「……にゃー」

にゃあ、では恥ずかしいし、にゃん、というキャラでもなく、迷いながら発した鳴き声は予想以上にぶっきらぼうに響いて可笑しかった。そそくさと羊羹を口に運べば、ふっと笑う一哉の声が聞こえた。

未来が布団に入ってからしばらく経つと部屋が薄暗くなり、隣の布団に一哉が身を滑り込ませる気配を感じた。すかさず身を寄せれば一哉が困ったような声色で囁く。

「いつもは利口なのに夜だけ甘えん坊なのは困ったものだな」
「何それ恥ずかしい……」
「言ってる俺も恥ずかしいよ」
「ふふ、」

一人称が「私」から「俺」に代わる瞬間、先生は一哉に戻る。

「未来の目、蛍みたい」
「見えるの? 光ってる?」
「きらきらしてる。綺麗」
「……儚いんですよ、蛍って」
「知ってる」

だからまだ消えないで、と一哉は未来を抱き寄せる。目を閉じながら未来は祈る。いつまでもこうして居られたら。

未来と一哉が出会ったのは、一哉が小説合宿の地として訪れていた京都だった。道を訪ねた一哉に彼女は何かを言いかけたかと思うと、大粒の涙を溢したのだ。慌てて近くの喫茶店に引き入れれば、過保護な母親から逃げるように転々としているのだと、辿々しくも芯のある声で彼女は答えた。その真っ直ぐな瞳に一哉は惹きつけられてしまい、それ以来無事にしているかを気にかけ、時に合宿の地へ呼び寄せている。一人で集中して書き上げるべき所だが、彼女の距離感は丁度良く、また彼女の振る舞いが彼の小説のキャラクターに彩りを与えてくれると気づいてから、二人は自分たちの関係を許すことにしたのだ。お互いのことをよく知らないままに。

「……明日の朝、お風呂入る?」
「朝は特に寒いだろう」
「でも、もう1回一緒に入りたい」

照れながらねだる未来を愛おしそうに見つめながら、一哉は同じ台詞を呟く。
「……君がそう言うなら、そうしよう」

彼女のことは蛍ではなく猫として飼ってやりたいと思っている。が、いつ逃げるかもしれない猫と、一夏だけ光って息絶える蛍では、どちらがより儚いのだろうか。
答えの出ない問いと不安をかき消すように、一哉は未来を抱く腕により一層力を込めるのだった。


🎧Slowly Drive - iri


いいなと思ったら応援しよう!

Shiori
愛を込めた文章を書く為の活動費に充てさせていただきます。ライブや旅に行ったり、素敵な映画を観たり、美味しい珈琲豆やお菓子を買ったり。記事へのスキ(ハートマーク)はログインしなくても押せますので、そちらも是非。

この記事が参加している募集