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昭和20年3月5日招集”22年11月22日頃招集軍隊生活2年8ヶ月位その⑤


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四◦二九
気分だいぶ良い
天長節 炊事より晝ゼンサイとパンが上る

四•三〇
寒い 病院に行くと、トラックで
ホジルブランの新しい病院に行きしが一杯で入院出来ず歸ってくる

五◦三
雪 トラックにて 前に行った病院に行きしが一杯で入院出来ず、又医務室へ
⚪︎病院は二ヶ所、新規病院は収容人員三百人位が今は四百人以上
旧病院は収容人員七百人位が今千人で盲導にもならず由

五◦五
中隊長が見舞いに来る




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入室生活
大豆飯にこまる 棒を見つけて潰して喰べる
春部隊の部隊長宮田大尉がセルバートルより移動して来る
大豆飯に塩気の無いのにあきれる
収容所の全員はレンガ工場へ働きに行く

朝六時三十分集合出発 夜八時頃歸る
お苦労様 山も青々となった 春だな

六•一
前川来る レンガ工場の話、手を見れば赤切れだらけ
毎日冷たい水 土をこねるので

六•一七
退室 体も前のように元気になった 体重四二キロ

六•二〇
レンガ工場初出勤



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レンガ工場
朝五時起床 朝食六時頃 六時二十分頃集合 三十分出発
二キロ工場 七時作業 初作業レンガ運搬
レンガ運搬 釜の中の焼けたレンガを出す、乾いた生レンガを釜の中に入る

入れるのは一日千二百枚、出すのは千五百枚をやらなければ歸れぬ
我々は弱兵だ出来ぬ、小隊長のはからいでごまかし歸る

七•一
分隊で一組(二人)、レンガを造ることになり自分、功刀が初めることになり
工場内の四十一番を受けました、七時三十分頃作業開始
まず、土をこね壁土の様にし箱の中に打ち込みふせて抜く
角のをちた様要注意、午後五時迄に八百枚以上造り、明日の土の運搬
もつこに入れ百米位先より搬じ 舟の様にし中に水を入れ終り
箱一つに二枚入る たいらな地面の上に並べて行く

五時過ぎる 検査に来る 満人か蒙古人、数枚不良の物はダメ(角の欠けた)




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八百枚以下の場合は午后七時になっても歸れぬ
罪として午后(午前?)十二時に仕上げる事
しかし、出来ぬ時は三百枚か五百枚位にし仕事をせず
午后十二時頃迄どっかに隠れて寝る

共産主義はダメ 一日の定量を仕上げなければ歸れぬ 又早く仕上げれば
次第に増して行く 又、日本人も悪い




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定量をやると百%一人に金壹亦、品物パンをくれ 百十%には金貳亦、百二十%金参亦、百三十% 
体が丈夫で場所の良い所、土がすぐそばの所はどんどん出来るから百三十%位やる 
初めは五百枚だったのが段々上がって今は八百枚になってしまったが品質を良くする為に
十五日より七百枚定量となる 角の立つ事、厚さ一定 
いくらか楽になったが一週間も続けると体が参るので誤魔化して三人一組でやることにし作業をする

八•二
レンガ造りが嫌で今日三百枚しか造らぬ 残業だ レンガの陰に隠れ晝寝
土運び 体が大事だ 一日定量、一日残業

八◦一八
日曜休み、入浴、寝る

保育隊からレンガ作業へ
日本捕虜達が作ったレンガは別の建設作業を任されている捕虜に届き、ウランバートル内の施設、建物になった
こうした建築物は今もなお残されていて
79年前の日本人捕虜の労働はモンゴルの人達に使われている

共産主義についての意見や
給料制度についても書かれている
抑留の組織体制は軍隊方式をそのまま活用されて統率されていた
同じ抑留者だが上官は上官のまま、隊は解体されていない、上層部は搾取をしている者もいた

モンゴルな抑留者の中で起きた暁に眠る事件などはその代表的な出来事だ

魚力の先代は周りの人間関係には恵まれていたのではないだろうか

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言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!