劣等感にまみれた東大院生の自己紹介
皆さん、はじめまして。
かがみこころと言います。
これからのnoteの投稿では、自分特有の思考回路を書いていきます。
普段の生活で考えていること
実践していること
悩み
ジャンルは
勉強
恋愛
人間関係
健康
人生観
です!
ですがその前に、僕自身のことを紹介しますね。
僕という人間
僕を一言で言い表すなら
「劣等感の塊」を克服しようともがく人
です。最初の記事にして、早速どぎつい話から始まります(笑)
努力が下手くそな人
僕は努力が下手くそな人です。
小学生の頃はサッカーをやっていました。近所のサッカークラブに通って、毎週日曜日にボールを蹴りに行きました。
小1の頃に130はあった身長をアドバンテージに、スタメンとして試合に出ていましたが、イマイチ上手くなりませんでした。結局、小4くらいで攻めの起点となるフォワードから、ディフェンスのセンターバックへとポジションチェンジとなったのです。
同じくらいの時期、僕は中学受験のためにSAPIXという有名な塾に通うことになりました。SAPIXにはクラスシステムがあって、成績が優秀な順にα1, α2, … と自分が通うクラスが決まります。
僕は、自分なりに勉強を頑張ったのですが、α1に行けたのはたったの1度でした。
そして受験の結果は第一志望、第二志望に不合格。
滑り止めとして受けていた中学に通うことになります。
中高時代は、部活と勉強の両立に勤しみました。
中学のときは、特に大学受験を意識してなかったのですが、教育熱心な親のおかげで人よりも勉強していたと思います。
母校では、定期試験ごとに学年内順位が分かる仕組みになっていました。
中2の時に運よく1位を取ることができましたが、ほとんどのテストでTop10に入るか入らないか程度の結果しか残せませんでした。
僕がライバルだと思ってた人間には、ことごとく負け続けました。1位を取ったのは道端で1万円を拾ったくらいの偶然です。
そして高校時代、まわりの子たちが大学受験に向けて本気を出し始めると、自分の成績に追いつかれ、抜かされるようになっていきます。
そうなんです。努力が下手くそなんです。
時間だけ多く消費して成果が少ない。
大学受験は東京理科大、慶応、東大に合格しました。
これまでかけた勉強時間の貯金があったんだろうという感じでした。
実際の得点開示を見ると、結構ギリギリだったことが分かります。
小学生の頃から中高と、自分の中に積みあがっていく敗北経験は徐々に劣等感へと姿を変えていきました。
そうして迎えた大学生活。
東大では選択した第二外国語に従ってクラス分けがあります。
そのクラスには、今なお仲良くしている大親友のA君とB君がいました。
彼らは、恐らく読者の皆さんが想像する10倍くらい優秀です。賢いです。
僕は基本的に彼らと行動を共にしていました。
ところで、皆さんは東大の進学振り分け制度をご存じでしょうか?
簡単に言ってしまえば、大学一年次の成績が良い人から、好きな学部学科に行けるというものです。
中間試験や期末試験に向けて、僕は大変に準備をしました。
試験の1ヵ月くらい前から勉強を始め、過去問を使って対策していました。
それでも、、、
A君とB君にはテストで勝てた試しがありません。
小中高で積み上げてきたものなのか、陰ながらの努力なのか、才能か
僕にはわかりませんでした。
ただただ、そこには巨大な壁がありました。
もちろん、僕自身もそれなりに勉強したので成績自体はかなり良いもののように見えます。でも僕は全く満足できなかった。
これは傍から見たら、良い成績の部類です。
実際に進学振り分けでは、人気高騰している情報系の学部に進めました。
人気高騰しているということは、必要な成績の基準が高いということです。
ということは、、、
周りが天才ばかりの学部学科に3年間も身を置くことが決定した瞬間でもありました。
上を見る癖
僕の劣等感を育て上げたのは、己が飼っているプライドなのかもしれない。
小中高とナンバーワンを取りたかったが、取れなかった。
その経験から、僕は常に1番でありたいという欲求が強くなっていました。
これは勉強に限らず、自分がやる行動全般でです。
ゲームも、運動も、部活も、なんでも。
すぐ人と競いたくなってしまいます。
当然、相手も相手でなんらかの努力をしているわけで、そんな楽にトップを取れません。
こんな簡単なことにも当時は気が付けませんでした。
もちろん、上を見続けてきたおかげで、上の人に引っ張ってもらえたから、本来いるべきところより少し上の階段に立てると感じます。
それでも、上を見続けるというのは病的な行為です。
僕たちは人の結果を見て努力を見ません。
そうです、さも簡単かのようにトップに君臨している姿をみては、自分も容易にできるのではないかと錯覚して、失敗します。
僕の場合は、その失敗を次のステップへの糧とするよりも、自分の無能さや無力さの象徴として捉えてしまいます。
それでも、下を見ることができないんです。
自分よりも何かが足りていない人を見て、安心している自分が一番みっともないと思ってしまいます。
この考え方が何に影響されて発生してるのかは分かりません。
ですが言ってしまえば、僕は意識高い系くんです。
こうした僕の「下を見ず上だけを見る」という精神は、「自分が有能である」と思うためのプラシーボとなっていた気がします。
これによって、「自分が優秀であるはずだ」というプライドができあがりました。
劣等感の膨張
自分の思考では「僕は優秀である」
実際の経験では「僕は何をやっても上手くいかない」
こういった葛藤が自分の中で発生していました。
心理学では認知的不協和と呼ばれている状態ですね。
人間は矛盾した2つの事柄A, Bが存在するとき、どちらか片方の事柄(例えばA)を正しいものと考えるために、別の事柄(B)に対して認知を歪めます。
僕の場合は、何をやっても上手くいかないという経験があまりにも多すぎたせいか、「僕は優秀であるという皮をかぶった無能」だという風に自分を決めつけ始めました。
この決めつけは、自己肯定感を大きく下げます。
僕は大学生のとき、何をやっても自信がなくて、上手くやれているか不安でした。新たな挑戦をすることも億劫になっていました。
この心理状態のほかにも、僕の劣等感を助長するものがありました。
それは大学という名の肩書きです。
肩書きというレンズを通してみる世界は、はっきり言って、それぞれの個体に対する冒涜です。肩書きは「人は違って当たり前」という共通認識を破壊します。
東大というのは、優秀な先人たちのおかげで、「知性」「卓越」といったブランドイメージがあります。
高校同期の誰と話していても、「東大行ってるお前は優秀」という前提のもとで会話が成立しています。
しかし、僕は合格最低点+10点で通過した身分。
加えて、スーパー優秀な友人に手も足も出ないほど差を感じる。
しまいに、進学振り分けで進んだ学部は天才だらけの場所。
こういった環境は、成長するには文句なしの最高です。
ですが、やはり精神が削られていく。
もう上を見るなんて言ってられないんです。
横にいるのが、自分より格上の人間です。
もちろん、勉強という指標においての評価ですよ。それはわかっています。
でもさっき言いました。
僕は1番でありたいという欲求が強いんです。
こうして、自分で自分の首を絞めるように、苦手な分野であっても自分と他者と比較をしてしまいました。
苦しかった。心の中でSOSを叫んでいました。
快復の兆し
そんな僕でしたが、最近は自分の劣等感を少しずつ克服できてきている気がします。大人になったんですかね。
何かが上手くいかない時は、それ以前のどこかで躓いている
当たり前の話ですよね。
現状を見て対症療法を施したところで、違うことを始めたら同じポイントで失敗します。
僕はマインドセットから行動まで、自分自身を全部見つめ直そうと思ったんです。
まあその初めの一歩が友人が誘ってくれたジムだったんですが(笑)
別に筋トレを勧めようとかではなくて。
筋トレというのは本当にメンタルにいいんですよ。
ボディビルに興味がないおかげか、誰かと競おうだなんて微塵も考えつかなかった。
ただただ自分のためにやっている。
そんな感覚が自己肯定感をあげてくれました。
生理学的にもいい感じのホルモンが分泌されてたりするのかな?知らんけど
自己肯定感が上がるとエネルギーが高まります。
何かに挑戦してみようという気分になります。
そうして僕は、自分を見つめ直すチャンスを得て、ちょっとずつ思考を整理し始めようと思いました。
自分の思考を備忘録的として書いたり
自分の悪い思考の癖を矯正したり
そういった記事を書いていけると役に立つんじゃないかなと思います。
長々と書いてしまいましたが
お読みいただきありがとうございました!
また次の記事で。
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